月の裏

怪談や都市伝説などのいわゆる「怖い話」を紹介していくブログ

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無意識の森へようこそ---「恐怖のナポリタン」の夢解釈(前編)

前回から少々、間が空いてしまったが、予定通り「恐怖のナポリタン」を夢---あるいはユングの言う元型的な要素を持つ物語---と見立て、その意味を解釈していきたいと思う。一応、物語の全文を改めて再掲しておこう。
(各行頭の行番号は便宜上、私が振ったもので原文にはない)

「恐怖のナポリタン」

(01) ある日、私は森に迷ってしまった。
(02) 夜になりお腹も減ってきた。
(03) そんな中、一軒のお店を見つけた。
(04) 「ここはとあるレストラン」
(05) 変な名前の店だ。
(06) 私は人気メニューの「ナポリタン」を注文する。
(07) 数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。
(08) ・・・なんか変だ。しょっぱい。変にしょっぱい。頭が痛い。
(09) 私は苦情を言った。
(10) 店長:「すいません作り直します。御代も結構です。」
(11) 数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。今度は平気みたいだ。
(12) 私は店をでる。
(13) しばらくして、私は気づいてしまった・・・
(14) ここはとあるレストラン・・・
(15) 人気メニューは・・・ナポリタン・・・

さて、それでは「恐怖のナポリタン」の夢世界へと沈んでいこうか・・・。

全ての夢とは無意識との接触であるわけだが、特に「恐怖のナポリタン」では無意識との接触それ自体が夢全体の大きなテーマとなっている。このことは夢の舞台が夜の森であることからも明白である。意識が消失する夜とは無意識の支配する領域であり、また何が潜んでいるかを窺い知れない森というものも典型的な無意識の領域の象徴である。この物語は、「私」の意識が無意識の領域へと足を踏み入れていく物語なのである。

だが、それは決して「私」の自我自らが望んだ体験ではない。私がこの森に来た理由やその行く先は知れない。「私」はいつの間にか暗い森の中にいて、それも随分と長い間、目的地もないというのに迷っているのだ。これはこの旅が自らが積極的に何らかの目的を抱えて挑む冒険ではなく、無意識の側からの誘いであることを示している。無意識は何らかのメッセージを「私」に与えたいがために「私」をここに引き寄せたのである。

私は夜になるまで、と随分長い間、森の中を歩き回り、そしてそれにもかかわらずその間、何者をも目にしなかった。後でこのことにもある意味が暗示されているということが分かるのだが、ひとまず先に進もう。私は迷った挙げ句、一軒のレストランへとたどり着く。「ここはとあるレストラン」へと。

ここまでが物語の舞台である。そして、ここからいよいよ物語は本論に入り、私はそのレストランの中で奇妙な体験をするわけだが、この意味は先にこの物語最大の謎を解明しておかないと読み解くことはできない。この物語最大の謎とは・・・そう、何と言っても最後の3行、私は何に気付いてしまったのか?という部分である。

この最後の3行の読み方は、国語の教科書的には2通り考えられるだろう。一つは、私が気付いた「何か」、とは全く未知の何かであって、それは「ここはとあるレストラン」という名前と、その人気メニューがナポリタンであることを手がかりにして推測できるものになる、という読み方。そしてもう一つは、私が気付いた「何か」とは、次の2行に書かれた「ここはとあるレストラン」やナポリタンに関する何らかの情報である、という読み方である。

どちらの読み方も大変、魅力的ではあるのだが、前者の解釈を取るにはあまりに情報が少なすぎる。前者の解釈は、この話の裏に「隠されている」はずの何らかの別の物語の存在を必要とするように思われるのである。そして、ここは「恐怖のナポリタン」を読む個人個人による解釈方法の分かれ道になる。もしあなたが、この物語を読んだときに、裏に隠されたストーリーとしてイメージできる何かしら別の物語(自分の想像でも既存の物語でも何でも良い)を思い浮かべることができたなら、あなたにとっての「恐怖のナポリタン」の秘密とは、その物語そのものになる。そこには全く何の論理的な根拠の存在も必要ない。あなたがなぜかその物語をイメージしたのであるなら、それが正解なのである。この物語はそのような仕掛けなのだ。

だが、もしあなたが何らかのはっきりとしたストーリーを思い浮かべることができなかった場合、あなたは後者の読み解き方---つまり、最後の3行を、私はレストランやナポリタンの意味やそれらに関する何らかの情報に気付いた、と解するやり方---を取ることになり、引き続き、私と一緒にこの物語の解釈を進めていくことになる。さあ、先に進もう。

私は、一体、レストランやナポリタンについて何に気付いたというのだろうか? この最も自然な解釈は、そのように喋るときの心情を思い浮かべてみれば自ずと明らかになる。そう、私はこの、人気メニューをナポリタンとする「ここはとあるレストラン」にかつて来たことがあるのだ!それはあまりに古い記憶で、あまりに長い間忘れていたことであったのですぐには思い出せなかったのだが、私は幼い頃、この「ここはとあるレストラン」に何回も来たことがあったのだ。

実は、この事実は物語の中で、実に3回も強烈に暗示されている。まず、もっとも分かりやすい手がかりは6行目、「人気メニューの『ナポリタン』」のくだりだ。この物語を最初から読んでいったとき、多くの人は、まず一番最初にここで「あれ?」と感じることになるのではないだろうか? なぜ、「私」は人気メニューがナポリタンであることを知っているのだろうか?という疑問だ。言うまでもなく、これ以前には(そして結果的にはこれ以降にも)ナポリタンが人気メニューであることに関する説明は存在しない。多くの読者は、ひとまずメニューか何かにそのようなことが書いてあったのだろう、と仮置きして読み進めることになるのだが、もしこれが大して意味を持たない情報であるのなら、わざわざこんなところ---何しろ物語で最初に登場する「説明の不在」である---で引っかかりを作る意味もないし、また逆にそんなに心に引っかかりを覚えることもないのである。

これは叙述トリックとも言うべき巧妙な記述だ。真相は「私」はナポリタンが人気メニューであることをすでに知っていたということなのだ。ただし、それは無意識的なレベルでの知識であり、この段階ではまだそのことを「知って」はいるが「気付いて」はいない。この微妙なニュアンスを、唐突に記述された説明不在の「人気メニューの『ナポリタン』」は実に良く表現していると思う。

私が以前にこのレストランに来たことがあることを教えるもう一つの鍵はレストランの名前にある。通常、夢に表れる事物の名前はいい加減なようでいて実に深い意味を持っていたりするものだ。ところが、このレストランには実質的に名前が付けられていない。夢は、このレストランについて、わざわざ「ここは、とある(特に名前は問題としない)レストランですよ」と語りかけているのだ。その説明自体をとりあえずの名前にしてしまうとは実に洒落たやり方である。そして、名前を持たないにもかかわらず、このレストランに名前が不要であるという事実自体は強いメッセージとして与えられているのだ。これが意味することは、このレストランは「あれだよ」と言われれば「あれね」と了解されるような、無意識と意識の間では説明不要なものである、ということなのだ。意識は忘れてしまったが、このレストランにはすでに何度も足を運んでいたのである(そして、もっと言えば、この無意識と意識との間で「レストラン」の指すものについて説明不要で了解が成立するということは、単に過去の夢でここに来たことがある、以上の意味があることなのだが)。

また、私には、この名前を付ける必要のない名前を持つということの意味について、実はもう一つの意味がイメージされるのだが、それは後で触れよう。

最後の鍵は「ナポリタン」にある。「ナポリタン」について、あなたはどんなイメージを持っているだろうか? たとえば、あなたがそれなりの年齢の大人だとして、パスタを食べるような店に行って「ナポリタン」を頼むだろうか? 普通は頼むまい。たとえば「夏野菜と魚貝の何とかーナ風何とかチーノ」みたいな、もっと長ったらしい小洒落た名前の付いたものを頼むのではないか? そう、ナポリタンはどちらかと言えばお子様の食べ物だし、それ以前に「昔の」食べ物なのである。

実際、私が子供の頃は、「スパゲッティー」と言えば「ナポリタン」か「ミートソース」が定番かつ人気メニューで、そもそもそれ以外の「スパゲッティー」など存在しなかったのだ。「明太子」やら「ペペロンチーノ」やら、というかそれ以前に「パスタ」というものが存在していなかったのだから。残念ながら私は「ミートソース派」---というのは、幼いときにたった一度だけ何かの機会に連れて行ってもらった上野精養軒でミートソースを食べて大きな衝撃を受けたという幸福な思い出があるからなのだが---ではあったが、「スパゲッティー」は本当に我々の人気メニューであった。

人気メニューがナポリタンであるレストラン・・・それはもう完全に子供の世界、幼く幸せだった頃の空想の産物なのである。私はその夢の中の「レストラン」に幼い頃、何度も何度も遊びに来ていたのだ。

だが、私がそのことを思い出すのはようやくレストランを出てから、なのである。私はなぜ、そんなにも気付かなかったのか? それはもちろん、あまりに長い間足を運んでいなかったから、ということが大きいが、おそらくレストランの姿がかつての栄華とはかけ離れたものへと変貌していたから、ということもあるだろう。そう、このレストラン、かつては「人気メニュー」を擁するくらいに多くの子供たちで賑わい、夢を与えていたものだったのだ。それが今では店の中にはただ一人、店長を除いて誰の人影も見えないのである。大人になってから、何だか古めかしく賑わいもなくなってしまった上野精養軒で記憶とは全然違うミートソースを食べた私には痛いほど鮮明にイメージできる情景だ・・・。

さて、ここまで書いてくると、このレストランが一体何であるのかが、見えてくる。このレストランは、無意識の中でもかなり人格的な部分---あなたに存在し得た人格や能力、可能性といったもの---が入ってくる世界なのである。

(後編へ続く)
  1. 2006/08/10(木) 00:33:22|
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やっと分かった、「恐怖のナポリタン」の本当の意味

先月のアクセスログの検索ワードランキングをチェックしてみたら、相変わらず「恐怖のナポリタン」が第一位。しかもブッちぎりである。「都市伝説」や「怪談」などよりもはるかに多いのである。今やこのブログに対する検索の半分はナポリタン関係となっていたりするのには本当に驚かされた。
(「恐怖のナポリタン」って何?という方は、こちらの記事をどうぞ)

「恐怖のナポリタン」はすでに古典的なコピペのはずだ。にもかかわらず、いまだにその人気は衰えるどころか伸び続けてすらいる。多くの人がこの「ナポリタン」に惹き付けられ、この物語に対してどうにか納得のいく形で解釈を求め迷っている。それも実に長い間・・・・・・。
そうしたネットの闇を彷徨う数多くの人たちの姿をイメージし、ふと、その意味を考えたとき、突如、ひらめいたのである。そう、やっと分かったのだ。「恐怖のナポリタン」とは一体、何であるのか、ということが!

数多くの人たちがこの一見意味不明な、それどころかまるで全ての解釈すらをも拒むかのようなとびっきりナンセンスな、しかし大して面白くもない物語になぜだか魅了され、その意味を考えるということを止められないでいるということ・・・・・そのこと自体が実はこの物語の意味を解く重大な鍵だったのである。かくも多くの人がわけもなく惹き付けられることにはやっぱりしかるべき理由があるのである。

一見、面白くもない荒唐無稽な物語が長い年月の間、たくさんの人たちに語り続けられてその記憶に留まるということが、非常に良くあることであるのは童話や民話を思い浮かべればすぐに分かることであろう。童話や民話といったものがなぜにそんなにも人々から忘れられないでいられるのか、ということについては多くの説があるが、中でも近年のユング派の心理学者たちの説明はことさらに有名である。そうした物語には、我々が人生において無意識から受け取るメッセージの普遍的なパターンが含まれている、というものだ。つまり、こうした物語は、我々が生きていく上でよく経験するであろう心理学的なメッセージとして解釈をできるということなのだ。

だからといって短絡して、「ナポリタン」が現代の民話である、というようには誤解しないで欲しい。この話はそこまで普遍的ではないし、物語的であるというよりはもっと断片的なイメージを表すように思われるからだ。そう、この「ナポリタン」は、我々が無意識からメッセージを受け取るもう一つの、そして最もポピュラーな形式、すなわち「夢」なのではなかろうか? ただし、ただの素朴な夢ではない。この夢が語るメッセージは個人的なものというよりは、我々が非常によく経験しがちな、一般性のレベルの高いものなのであり、だからこそ多くの人が、これをあたかも自分が見た「夢」のように感じ、惹き付けられるのである。

もしあなたが、この物語になぜだか引っかかるものを感じ、そしてどうにかその意味を紐解きたいと感じているのであれば、この物語はそのまま、あなたが見た夢そのものである、と思ってしまっても良いだろう。実際に、あなたはただ覚えていないだけで、すでにこれに類した夢を見ているということすら考えられるかもしれないのだから。

しかしそれにしても、なぜゆえにこの「夢」はかくも忘れがたく、不気味な、まるで何かの警告でも与えているかのような不吉な印象を我々に感じさせるのであろうか???

さて、ようやくここからが本題なのだが、もちろんそれにははっきりとした理由がある。

この「恐怖のナポリタン」という物語をあなたの夢として読み解くならば、それは「猿夢」よりもさらに危機的な状況を警告しているのである。そう、「恐怖のナポリタン」とはまさに無意識からの最終警告であるのだ。そういうわけで、次回はいよいよ「恐怖のナポリタン」の「解釈」に踏み込んでいきたいと思う。

(と、こういうフリをしておいて次回がなかったことが今まで何度あっただろう・・・。反省しています、、、)
  1. 2006/08/02(水) 03:10:52|
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「オッス!みんなの元気をオラに吸わせてくれ!」

まずはじめに断っておくが、私はこのブログを通して何か実在する特定の団体や思想、特に宗教や宗教団体、人物を貶めたり攻撃したりあるいは逆に褒め称えたり推奨したりする意図は全くない。このブログに書かれている全ての記事は特定の何かに関連するものではないし、いや、それどころかそのほとんどは事実ですらなく、単なる空想的なエンターテイメントであるとご理解頂きたい。

と、改めて断り書きを書かせて頂いたわけだが、こんなふうに始めると勘の良い方なら、前回の続き---「やたら死ぬ」よりもさらに数段恐ろしい話---の内容について察しがつくかもしれない。勿体をつける必要もないのでサクッと紹介してサクッと終わらせよう。なお、この「怪談」に書かれている話が真実なのかどうか、私などには知りようはないが、常識的に考えればそんな非科学的なことはあり得ないので、単なる作り話であろう。ヘタをすれば、悪質な意図を持ったデマである可能性すらあり、決して私にはこの話の内容に何かしらの真実性を主張したいという意図はないことは分かって欲しい。また、そういう大人な楽しみ方のできない方、紹介されている話の内容とそれを紹介している人間の主張を混同するような方はこれ以降は決して読まないでもらいたい。

「恐ろしい連中」

この話は、日蓮宗に由来する何かしらの宗教団体をモデルにしているようだが、具体名が挙げられていないことからそれが何であるかはよく分からない。怪談によくあるパターンだが、形式上、そういう語り口調をとってリアリティーを高める効果を狙っただけのことで、実際には架空の宗教団体をネタにしたフィクションなのだろうと思う。

ただ、その内容が空想のものであれ、ここに語られている「呪術装置」の機構に関するアイデアは恐るべきものがある。よくある呪い話のように誰か一人が呪われるとか、前回の話のように身の回りの人を不幸にしていく特殊な力を持った誰か一人がいるとか、そんなレベルの仕組みではないのだから。

よく、「人を呪わば穴二つ」という。これは、「呪い」というネガティブな精神エネルギーの恐ろしさを非常によく表した言葉で、呪いなどというものは普通の人間の手に負えるようなシロモノではないのである。そうした呪術的なものに関わるなら、どのような関与の方法であれ最終的には身の破滅を招くのがオチだ。そして、幸いなことにそうした「呪い」というものの大変に扱いにくい性質が、それがこの世界に氾濫することを防いでいるということも言える。ホイホイとそんなものが飛び交うような世の中は、長距離ミサイルが気軽に撃ち交わされる世の中よりも恐ろしい。

だが、扱いが難しい、あるいは滅多に見かけない、ということは、それが現実に存在しないことの保証にはならない。いやむしろ、そうした素人の手に負えるものではないだけに、何かしらの呪術集団がそうした技術を慎重に継承し続けている、という説には不気味なリアリティが感じられるのである。

この怪談で主張される呪術装置の動作機構は実に巧妙だ。誰かを不幸にしたい、という動作原理に基づくものであれば、例えそれが洗練され集団管理されたものであろうと、「人を呪わば穴二つ」の基本法則から逃れることはできない。だが、これはそうではない。この怪談では語られていないが、この装置がかくも効率的に機能する理由、それはどんな宗教でも美徳とされる、ある高潔な人間的態度にあるのではなかろうか。そう、それは「自己犠牲」である。

本来、宗教に対するニーズは自らの幸福を願う気持ちにあるわけであるが、その割には自らの現世利益のために祈りを捧げることを良しとする宗教は非常に少ない。それどころか何かと理由を付けて自らの現世利益、あるいはそれを願う気持ちすらを差し出すことを求める宗教の方がはるかに多いのである。

もちろん、そのこと自体は素晴らしいことのように思えるが、問題は、そうした信者が自発的に自分自身の現在の幸福の差し出す態度というのが、悪用されると大変に危険な結果を生み出しかねない、というところにある。単なる「祈り」という行為を通じてその人の霊的なエネルギーを吸い取るということは難しいように思う。当然、そのためには、それを許可する呪文を本人に唱えさせる必要があるわけだが、その際にさらに信者自身にその呪文と同じ内容の実現を願う気持ちがあるなら、その成就が一層、容易になるだろうことは自明であろう。

「自己犠牲」、大いに結構。「来世の幸福」、それも大いに結構。だが、もしそれが極度に今現在のあなたの幸せを損ねるものであるならば、一度は疑ってみる必要はある。もっとも、「疑う」ということは現実を見るということでもあり、実は大変に難しいことであるのだが。

例えば、今、あなたが10万円を持っていたとしよう。もしそれが1000万円に増えるチャンスがあるのなら、多くの人が1万円くらいはドブに捨てることを厭わないと思う。たとえその期待値が限りなくゼロに近いとしても・・・。自分自身でその10万円を1000万円にまで増やす気の遠くなるような努力を考えれば安いものだからだ。そう、そのとき、あなたは、1000万円という夢を買ったのではない。1000万円に至る努力の放棄、という安逸を買ったに過ぎないのだ。

怪談世界においても、弱い者はその弱さにつけ込まれ、徹底的に陵辱され、さらに弱い地位に貶められるというのが現実だ。もし、現実世界の弱さを逆転するために何かオカルティックな世界に入ろうというのならやめておいた方が良い。どんな世界でも、安易な入門はさらなる悲惨をもたらすだけなのだから。

今あるわずかな幸福を守り育てる気の遠くなるような努力。それだけでは生きてはいけないのは理解できる。だが、それなくしてもやはり生きてはいけないものだと思う。
  1. 2006/07/23(日) 16:45:27|
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確率論が産み出す「吸血鬼」

もうだいぶ前になるが、「アンブレイカブル」という映画があった。心霊ものの大ヒット作「シックス・センス」を産み出した、監督M・ナイト・シャマランと主演ブルース・ウィリスの組合せによる話題性たっぷりの作品で、テレビ放映もされたので見たことのある人も多いと思う。どんな大事故からも奇跡的に無傷で生還してしまう強運の持ち主についての話だ。

(注:以下、ネタバレ部分は黒字にするので未見の方は読み飛ばしてください)

この映画ではその強運の主人公の裏返しの存在として、今度は逆にことごとく運に見放されて怪我や病気ばかりしてしまう人物が登場する。ある意味、そういう不幸なイベントに見舞われ続けながらも生きながらえるこの人物の方が強運なのではなかろうかという気もするが、まあそれはさておいて、ともかく、この人物は考えるわけだ。自分のように天文学的確率の低さで不幸が連発する人間がいるなら、その対局としてとんでもなく強運な人間---どんな事故に遭遇しようが傷一つつけることなく生き残れてしまう人間---もいるのではなかろうか、と。で、彼はそういう奇妙な思想に取り憑かれた結果、大惨事の結果として生じる「奇跡的な生存者」を発見したいがために次々とテロを仕掛けて大惨事を起こしていく、ということになるわけだが・・・。

一見、とんでもなくナンセンスな思想に思えるが、確率論的には、この映画の主人公、あるいは裏主人公のようにとてつもなく強運、あるいは不運な人間、いってみれば運勢の特異点に位置するような人間というものが存在することは少しもおかしいことではない。否、むしろ数字上、それは当然に存在しなければいけない存在なのである。

だがしかし、そうは言っても、もし実際にそういう人間を目の当たりにしたならば、やはり我々は単にそれを単なる偶然の連発である、とは考えられずに「何かある」と思ってしまうのではないだろうか。

前置きが長くなってしまったが、そんなことを考えさせられる怪談がこの話である。

「やたら死ぬ」

私の中では、この話から感じる恐怖はトップレベルに入っている。そこまで大きな恐怖を感じる理由としては、やはりこの話に非常なリアリティを感じてしまうということが大きいだろう。実際にこういう「吸血鬼」のような人はいかにもいそうだが、こんなヤツらが世の中に人知れず潜んでいることを想像すると本当に背筋が寒くなってくる。

彼ら吸血鬼は、果たして単なる確率論の産物なのだろうか。それとも彼らの幸運(とその回りの人の不運)は、やはり何らかのオカルティックな関係付けができるものなのだろうか・・・。だが、実は、その答えがどちらであったとしても、恐怖の度合いはさして変わるものではないのである!

彼ら吸血鬼が偶然の産物であったとしよう。彼らは単なる偶然の産物なのだ。彼ら自身には何ら本質的な力があるわけではない。だとすればなぜに恐怖を感じなければならないのだろうか?ここで、「アンブレイカブル」が浮かび上がるもう一つのテーマが重要になってくる。

「アンブレイカブル」、破られざる者、どんな惨事をも生き延びる強運の持ち主・・・彼は数学的には単なる可能性ではなく、それどころか当然にこの世に存在していなければならない現実のものなのだが、では彼の強運とは過去に対してのものなのだろうか?それとも将来に渡って保証されたものなのだろうか?そう考えたとき、実は、数学的な世界観においてはこの問いはあまり意味を持たないということに気付く。そう、アンブレイカブルとは時間を離れた超越的な観察者から見て結果的にアンブレイカブルであれば良いのだ。つまり、その生涯に渡ってアンブレイカブルであったものが結果的にアンブレイカブルなのである。

全ての時間軸を見渡すことのできる超越的な観察者にとって、我々が今ここに立つ現在や、我々が見ることのできない未来といった区別は関係ない。つまり、我々から見た場合にはアンブレイカブルの強運が将来に渡って保証されたもののように見える、と言い切ってしまっても何の問題もないのだ。そして、この視点に立つと、「吸血鬼」もまた、現実世界に確かな実体としてこの世界に存在を保証されることになってしまう!

吸血鬼の存在を嫌うのであれば、以上の議論を認めず、数学的な世界観を放棄するという道がある。つまり、現実においては絶対的な超越者という立場を認めないわけだ。そしてその視点は、未来に何が起こるか、ということは過去の全てを足し合わせても予測不可能な、何か特別な関連でもって現在の意思の主体である我々と未来を関連付ける呪術的な思考体系へと容易につながる。そしてここにおいて、確率論の吸血鬼を嫌う立場は、皮肉なことに今度はオカルティックな吸血鬼を産み出す可能性へと道を開くのである。

実は、ある意味、ここまでの話は、「やたら死ぬ」よりも、現実的な意味においては確実に数段恐ろしい「怪談」を紹介するための前振りである。

オカルティックな「吸血鬼」は存在する。それも一人や二人ではない。たまたま知り合う可能性のある一個人というような生やさしい在り方ではなく、もっと組織だって意識的に我々を狙ってくる集団として存在する。

そんな恐ろしいある疑惑を語る「お話」を次回は紹介したい。
  1. 2006/07/08(土) 02:05:53|
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魔法使いになる方法

ネットでときどき見かけるネタに、

「30歳まで童貞を守ると魔法が使えるようになる」

という話がある。元々、どこかのサイトのローカルネタだった話がじわじわと広がり、そのネタを題材にした大きいお友達向けゲームが出たりしたこともあってポピュラーになったもののようだ。

(ちなみに「30歳 魔法使い」で検索したら、こんな記事「半導体業界は魔法使い募集中?」が引っかかった。童貞魔法使いネタと関係するのかしないのか、かなり深読みしたくなるw)

この修行法によって使えるようになる魔法はこんな素敵なものばかり。

凍てつく波動 : つまらんギャグを飛ばして周辺を凍らせる
トラマナ: クリスマス等にカップルだらけの街を一人で歩いてもダメージを受けない
トヘロス: 自分の周囲に人が近寄ってこなくなる

程度なら安心して笑えるが

アストロン: 自分の殻に閉じこもる
ザラキ: 周囲の人間を練炭自殺に巻き込む
リレイズ: 高額生命保険

あたりまでくると笑って良いところなのかどうか、かなり苦慮させられるところ。まさに凍てつく波動を喰らったような感じか。

ともかく、この「童貞→魔法使い」というのは、自他共にキモヲタと認めるMっ気たっぷりな人種の方々が自虐的に語るネタなのだが、それだけなら当然、ここで紹介するわけはない。そう、実はこのネタをベースに真剣なオカルトが展開される説話があったりするのだ。

「魔法使いが増えている」

一見、荒唐無稽な御説ではあるのだが、個人的には結構、怖いものを感じる話だ。笑いながら読んでいきながら、だんだんと「背筋に寒いものが」確かに感じられる。

要約すると、「30歳まで童貞=魔法使いになる」というのはあながちあり得ない話ではない、ということが主張されているということになろうか。「童貞を守る」=「一種の禁欲」ということで、見方によってはそれはある種の修行活動になり得るわけだ。特に、暗いところに閉じこもって寝食を忘れ、生身の肉欲を忘れて(たとえそれがゲームであったとしても)1つのものに集中することを何年も続けるような状態は、行為面から見た場合、もはや即身仏になるための修行に近いものさえあるそうだ。確かにそう言われれば何となく一理あるような気もしてきてしまう。

通常、男の場合、「処女性」というものは全く重視されないわけだが、女性において神聖であるそれが男性においては何の重要性も持たない、ということは当然ないわけで、生身の異性への思慕を諦め世間との交感を断って形而上の閉鎖領域に没頭する「キモヲタ」というものは言ってみれば現代の巫女にすらあたるのかもしれない。

ただ、それはあくまでも形式上のことだ。修行とは本来は当然、自己の成長のために行うものである(「自己」・「成長」の定義は種々あろうが)。その過程において、自己の成長とは本質的な関係を持たない何らかの「力」が手に入ることもあるかもしれないが、あくまでもそれは副産物であって最初から目的とするようなものではないのだ。

では、その目的を全く顧みることなく、無目的に単にその形式のみを真似た場合、修行とは何らかの「成果」を顕すものなのだろうか。もしそれに対する回答がYESであるなら、上記の説はあながち荒唐無稽とは言い切れないのかもしれない。実際、無目的な修行には該当しないが、「副産物」を目的に修行をし、そしてその成果を認めたと吹聴する輩は大勢いるのだ。そして、そういう修行はえてして決して世界を良くするとは思えない結果を得る。ヨガによって得られる超能力を売りに信者を勧誘していた有名なカルト教団が最終的には反社会的な活動によって自らの破滅に至ったように。

ネットの時代になって知識の氾濫が嘆かれるようになった。オカルトの世界においてもその功罪を検討する必要はあるのかもしれない。
  1. 2006/07/06(木) 02:22:29|
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