月の裏

怪談や都市伝説などのいわゆる「怖い話」を紹介していくブログ

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ラブホテルで発生する奇怪な事件は必ず怪談たりえるか?

前回の予知能力ネタの続きを書こうと思ったのだが、あのネタは少々、重い。続けて書き続けるのはなかなか骨が折れることである。ということで、ちょっとコーヒーブレーク。一旦、中断して今日は軽めの話を紹介しようと思う。とはいえ、今日、紹介する話も「訳分からない」系、大変に奇妙な味を醸し出している傑作だ。

「睨む女」

いかがであろう? 短いからすぐに読めたと思う。読み終えた後も何かすっきりしないもやもやとしたものが残ったのではないだろうか?

これはいわゆる「怖い話」ではあるが、「訳分からない話」としても大変、秀逸だ。この話には、次のように「訳分からない」系の特に小品に多く見られる典型的な要素がよく備わっている。

1.意味不明な奇怪な出来事への遭遇
2.理由が全く分からないまま終わる
3.理由に対する想像の手がかりさえ与えない
4.不気味な舞台装置
5.本能的に不安を掻き立てるモチーフ

1と2については説明の必要はなかろう。読後のもやもや感こそが訳分からない系の肝であるが、理由がよく分からない意味不明な出来事が発生すればそれを誰かに解説してもらいたいような気持ちがわき起こるのは必然であり、得心がいくまでは当然、すっきりとしない気持ちが残る。そういう点では3も重要な要素だ。自分自身で簡単に納得を付けられるような解釈が成立し得るのならもやもや感は残らない。

だが、優秀な訳分からない系の話と駄作を分ける鍵は、実は4と5にあるのではないか、と私は考えている。特に、「睨む女」のような、人間の心の奥底にある不安感を引きずり出すような小品の場合、その良し悪しを決めるのは1~3のような「構造」ではなく、4、5のような「芸術性」になると思う。


「睨む女」の舞台は「ラブホテル」である。「ラブホテル」は怪談にはおなじみの舞台であるが、それはやはり怪談の舞台装置として申し分のない要素を備えているからに他ならない。「ラブホテル」と言えばそれは「性」の舞台であるが、「性」が容易に「生と死」を連想させることは言うまでもない。また、ビジュアル面において「ラブホテル」は暗くて陰鬱、圧迫感のある空間を想像させるが、そのような空間が幽霊モノにはうってつけなこともまたしかり。おまけに、ラブホテルは密室空間で、さらにその中では他の人間に出会うことは滅多にない。つまり、ラブホテルとは実は人の踏み込まない閉ざされた異界なのである。

また、ラブホテルを舞台にすることによる心理的な効果も見逃せない。心理学の世界では、初デートで一気に相手と親密になりたいなら一緒にジェットコースターに乗れ、という話がある。ジェットコースターのような絶叫マシンに乗れば否が応でも心拍数は上がり興奮を感じざるを得ないわけだが、その興奮はデート相手と一緒にいるという状況とともに記憶され、相手と一緒にいることに対する興奮体験として容易に混同されるから、というのが理由である。まあ真偽のほどは不明だが、もしもこの心理学の実験を確認してみたいと思われる妙齢の美女がいらっしゃれば、幽二郎に一声かけて頂ければ喜んで共に追試をさせて頂きたく存じるものである。

と、それはともかく、生理的な恐怖による興奮が容易く異性に対する興奮にすり替わるのであるなら、その逆もまた真なり。怪談においては、舞台装置に性的な小道具を散りばめておけば、知らずして恐怖に対する閾値を下げる効果を持つなんてことは(幽二郎的にはw)常識なのである。


さて、こんなふうに書いてくると、「では、ラブホテルで意味不明な奇怪な出来事が起これば、それだけで優秀な怪談になるのか?」と思われるかもしれないが、そこで最後の関門が待ちかまえている。すなわち、上記の5、モチーフの重要性だ。

「睨む女」を極めて魅力的な「訳分からない話」にしている最大の要因は、「睨む」というモチーフにある、と思う。それどころか、「睨む女」とは、実は訳分からなさを語りたい話なのではなく、「睨む」というものの不気味さ、不快さを心底から表現しつくした芸術作品なのである、とさえ思える。そのくらい、この話においては「睨む」という行為が効果的に使われているし、この話は「睨む」という行為の持つ気味悪さをよく表現している。

童話「赤ずきんちゃん」において、狼の大きな目は獲物である赤ずきんちゃんをよく見るために存在していたように、顔の前面に位置して対象を見つめる「目」とは本来、肉食動物が狙った獲物を決して見逃さないよう捕食のために進化させてきた遺構なのである。そして、顔の中央にはっきりと前を向いて存する人間の目もまたその本義は肉食動物の捕食機構にある。

つまり、視線というものは根源的に彼我の相互に決して相容れない隔絶を表すものなのだ。喰うものが、喰われるものに対して限りのない害意を集中する様こそが視線の本質だ。喰われるものにとって、喰うものの心は知りようがないし、喰われる理由も知りようがない。視線とは、それを受ける立場にとっては、まさに喰われるものの宿命とも言える生存に対する避けがたい脅威を表す。そこに生じる耐え難い不安は、何者かを喰らい何者かに喰われ連鎖する生が背負った原罪に対する罰とも言えるのだ。

本来的に悪意と害意を含意する視線の中でも、「睨む」ことによって生じる視線の恐怖度は最高レベルに達する。文化によっては人を睨むことを禁ずるところさえあるくらいだ。コミュニケーションが成立したつもりになっていた、つまり自らと同種の存在と思いこんでいた正体不明の「女」から突如として睨まれる。そこで感じる恐怖は確かに、出会い系常連の猛者をしてフルチンでラブホテルを疾走せしめるほどのものであったろう。シャワー室で全裸で屹立した(&させた?)ままさぞ美しい石像にさせられなかっただけ感謝しなければならないというものだ。

またもう一つ、「睨む女」をさらに不安なものにしている要素として、隠された視線の存在も忘れることはできない。ベッドの傍らで立つもう一人の女。彼女は一体、何を、誰を見ていたのであろうか。その解釈によってこの話の解釈は全く変わってくるだろう。彼女は元々のこの部屋の住人で不意のちん入者たちを睨んでいたのか? あるいは主人公の守護霊的な存在で睨む女を睨み返し主人公を見守っていたのか? またあるいは睨む女の連れてきた何かで、彼女ゆえに睨む女は睨む女となったのか・・・。


軽く書くつもりが思わず長くなってしまった。やはりそれだけ、この「睨む女」は魅力的な訳の分からない話だということなのだろう。神話の時代から常用される「睨む」というモチーフの力はかくも強力なものなのだ。

かく言う私も、実は、今、ある「視線」に怯えながらこれを書いていたりする。そう、他ならぬこれを読んでいるであろうあなたの視線を時空を超えて感じているからだ。「視線」の威力とは、もはや直接的に同じ場に居合わせるものの間にのみ留まるものではないのだ。

しかし、くれぐれも油断召されぬよう。もし今、同じ不安をあなたも感じていたとしても何の不思議もない。なぜなら、あなたがこれを読みどんな反応をするか、それを仄暗いネットの底辺からジッと窺う私の視線が、今、この瞬間にも容赦なくあなたに注がれているのだから・・・。
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  1. 2006/05/17(水) 21:54:35|
  2. 出典あり|
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  4. コメント:0
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幽二郎

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