月の裏

怪談や都市伝説などのいわゆる「怖い話」を紹介していくブログ

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霊とは何なのか?---「うしろの百太郎」の秘密

オカルトの世界では説明の必要がないほど有名なマンガ家に、つのだじろうという人がいる。代表作と言えば「うしろの百太郎」と「恐怖新聞」が挙げられるが、実はオカルト時代以前にも梶原一騎原作で「空手バカ一代」(第一部)のような人気作品を描いていたりする。

「空手バカ一代」は今から見ても、ちょっと体格は良くなったもののどう見ても鬼形礼が空手で牛やら熊やらヤクザやらをブッ倒すという、見方によってはメタにオカルトかつ楽しめる作品なのだが、さすがに鬼形礼だけあって主人公が妙に内省的でマゾヒスティックなのはかなり受けるところだ。マンガにおいて、実は顔の描き分け以上に難しいのが主人公のパーソナリティの描き分けだが、それを潔いほどに諦め、梶原一騎原作でありながらなお自らの主人公像を貫き通してしまうというのは、それはそれでスゴイことなのかもしれない。もっともそれは因果関係が逆で、「空手バカ一代」が肉体的な修行を究め尽くした挙げ句に精神世界へと移行していくのが「うしろの百太郎」であり、その果てにボロボロになってある種の諦観にたどり着いた境地が「恐怖新聞」なのである、という方が真相なのかもしれないが(笑)。

(なお、「空手バカ一代」の第二部の方はつのだじろうの画ではないので、マンガ喫茶とかでそっちの方を手にとって「どこが鬼形礼やねん!?」って怒らないように。念のため。さらに、名前が似ているからって同じ梶原一騎原作の「カラテ地獄変」だとか「新カラテ地獄変」だとかをうっかり手にとって別の世界のオカルトに開眼してしまったりしないようにw。)

さて、「うしろの百太郎」にしても「恐怖新聞」にしても、そのあまりに荒唐無稽でMMR的な内容をもってして、これをギャグマンガとしてしか見ていない人も多いかもしれないが、実は私、最近になってこの2作品を結構、再評価していたりするのである。それは、これらの2作品がある面における「霊」というものを実に見事に描いているように思われるからである。

つのだじろう作品における霊の大きな特徴とは、人に取り憑いて作動するということではないだろうか。つまり、霊とは常に人と共にあるものとして描かれるのである。

そして、このことは両作品に登場する主人公的な霊によって特に顕著に、そして象徴的に表現されている。「うしろの百太郎」の主人公の一太郎には守護霊である善霊の百太郎が、「恐怖新聞」の主人公の鬼形礼には憑依霊である悪霊のポルターガイストが登場し、いつも---なんでこの霊たちはこんなにも暇人で主人公をストーキングし続けるのか、というほどに---彼らを生暖かく見守っているのである。まあ、百太郎の方は守護霊だからそういう設定であるのは当然としても、面白いのはポルターガイストで、彼は悪霊のはずなのに鬼形礼を助け、また鬼形礼もそれを当然というか期待しているかのような共生関係を築いていたりするのである。「百太郎」を読んだ後に「恐怖新聞」を読めば、何の背景知識がなくても、ポルターガイストとはまるでチョイ悪百太郎、つまり口は悪いが結局は鬼形礼の守護霊であるかのように感じるに違いない。

彼らは主人公からは見えるときもあれば見えないときもあるが、彼らの方からは常に主人公を見守り続けている。普段は大体、夜になると現れるが、特に主人公が危機的な状況に陥ったり何かの転機を迎える際には常に重要なメッセージを持って姿を現し、主人公に何かしらの警告や助言を与える。主人公が意識するしないにかかわらず常に主人公と一緒にいて、主人公から離れることはないし、また離れることはできない。それが彼ら「うしろの霊」たちの際だった特徴なのだ。

一体、彼ら「うしろの霊」たちの正体とは何なのだろうか?我々は彼らに対して既視感を覚えないだろうか?そう、すでに勘の良い読者の方は察しがついていることと思うが、彼ら「うしろの霊」たちの見せる振る舞いとは、すでにこのブログでも何度も取り上げてきたテーマでもある「無意識」のそれとそっくりではないだろうか?「うしろの霊」たちとは、まさに擬人化された無意識そのものなのである。

そのように「霊」というものを無意識の人格的な表出として理解すると、一気に「霊」、特に「憑依する霊」というものの性質が明らかになるように思える。この見方を取るのであれば、まず、百太郎、つまり守護霊とは、実は我々自身の内部にあるものなのであり、意識に対して導き手として働く無意識の機能面を強調したものということになる。実際、百太郎がそうであったように、守護霊のイメージというのは我々に縁のあるもの、特にご先祖様として経験されることが多いが、それはまさに老成した我々自身の姿---当然にご先祖様に似ているのである---であるからに他ならない。我々の人生的な成長を先取りした完成型のイメージこそが守護霊なのであり、それは我々が人格的な成長の果てに目指すものとして無意識的な思い描いているものなのだ。

彼らは、私たちが今持っている情報について、それをもっと理想的な成長を遂げた私であればどのように判断するであろうか、という答えを持っている。それは往々にして現在の私たちの意識にとっては受け入れがたい判断ではあるが、結果的に正しい導きを行う。それは我々が不正を行いそうになったり、危機的な状況に陥った際に、我々が本当は見えているのに目を背けている状況打開の鍵を気付かせてくれる心の声であるから、いつも我々を助けてくれるとは限らない。普段の我々の行いの悪いものに霊が助けの手を差し伸べることはないが、それは我々が無意識的に目指す理想が日常の行いに結実し、また逆に日常の行いの積み重ねこそが人格的な成長と目標に結実することを考えれば当然のことと言えよう。

またさらに、百太郎が子供として現れているように、守護霊は老人や十分に成熟した大人のイメージではなく子供のイメージを持つことも多い。それは守護霊の持つ善性が無垢の童に端的に表現された結果でもある。人間とは、社会的な経験を積み重ねて大人になっていくに従って避けがたく汚れていくものであり、またそうした老獪な世知こそが日常、我々がこの世を生き延びていくことを助けるものではあるが、そうした濁った目は人生の重大局面においてはしばしば全く役に立たないどころか有害なものにすらなり得る。そんなときに我々を正しい方向に導いてくれるものは我々の中に実はまだわずかに残っている童心なのである。判断と言うよりは決断が迫られるような重大事においては、無垢な心こそが本当に正しい道を教えてくれるのだ。そして、そうした童心をなくさないためには、どんなにつまらなく見える日常に陥ってもなお、遊び心を忘れてはいけないのである。

このように我々の日頃の行いに応じて、その無意識的な蓄積は人生の難局にあたって我々を助け、導いてくれるのであるが、生きるということにおいてはもちろん、そのような善なるものだけを蓄積していけるわけではない。無意識的な蓄積の光の面が百太郎だとすれば、その暗黒面、それこそがまさにポルターガイストの正体なのだ。

・・・・・
書き疲れた。長くなったので、一旦、中断して(気が向いたらw)「恐怖新聞」編に続くことにしよう。

なお、一応、断っておくが、私は全ての霊現象を人間の無意識の働きに帰するつもりではない。これはあくまでも「うしろの百太郎」的なものに対する考察である。

さらにもう一つ断っておくと、心霊というオカルティックなものを無意識という(一見)科学的なもので説明しようとしたいわけでもない。いやそれどころかむしろ逆に、無意識という科学的なものをオカルティックなものに並べたい、ということはあるかもしれないが(笑)。
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  1. 2006/08/21(月) 01:49:40|
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ある都市伝説が都市伝説であるという都市伝説の方が都市伝説?

サトーさんという方から、ある漂流船についての話を知りませんか?とコメントで尋ねられたのですが、おそらくそれは「良栄丸」の話だと思います。「良栄丸」の話は有名で船名でググればすぐに出てくると思うのですが、実はなかなかメタに面白い話なので、ちょっとここでも紹介しましょう。

『ミイラ船「良栄丸」』

要するにこういう話です。

・・・
行方不明になっていた日本のマグロ漁船「良栄丸」がアメリカ沿海で発見された。船内に生存者はなく、死体も乗組員の一部のものしか見つからなかった。そして残された航海日誌から恐るべき事実が明らかになる。食糧の尽きた船内では、人肉食どころか死んだ乗員の肉を争って殺し合いまで行われていたというのだ。

しかしその後、意外なことが分かる。実は「良栄丸」は今回の「発見」以前にもアメリカ船によって漂流しているところが目撃されていたのだ。だが、なぜかこのとき、良栄丸の乗組員は救助を申し出るアメリカ船を無視していた・・・。
・・・

ちょっと記憶があやふやなのですが、実は私はこの話をネット時代以前に何かの本で読んだように覚えています。それくらいこれは一般に流布している「怪談」なのです。ところが、次のサイトを見ると、どうやら真相は違うようです。

『幽霊船の航海日誌』

このサイトの記述によれば、良栄丸の遭難自体は事実であったが、航海日誌には「怪談」に紹介されているようなグロテスクな内容は記述されていなくて、それどころか人肉食の事実すらわずかに状況証拠からその可能性が推測される程度のことであったようです。また、後日談においてアメリカ船が発見した漂流船が良栄丸であったかどうかも定かではないということで、良栄丸の話はごく普通の海難事件であった、ということになるわけです。

要するに「良栄丸怪談」とは単なる都市伝説である可能性が高いのですが、注意しなくてはいけないのは、ある都市伝説が有名になるにつれて「その怪談は単なる都市伝説だ」という、根拠の曖昧なある意味それ自体も都市伝説的な言説が広まる事例がよくあるということですね。つまり、「ある都市伝説は実は都市伝説である」と主張する話については、元の話以上に注意して聞かないといけないんです。

元々、都市伝説なんていかにもうさんくさい話が多いので、それが嘘だ、という主張は大変、もっともらしく聞こえ、何の検証もなしに受け入れられがちです。しかし、火のない所に煙は立たないというか、盗人にも三分の理というか、どんなうさんくさいものにも大抵は何らかの真実性の一端は隠されていたりするもので、そういうものをAll or Nothingで否定するのは大変に危険な精神性ではないか、思うわけです。ある真実を隠すために、その真実をグロテスクに加工したおとぎ話を都市伝説として流すような情報操作として都市伝説が利用されないとも限りませんしね。

多くの人が語り継ぐ話には何かしらの秘密があります。それは、単純に一個人に印象に残るという以上の意味があるのではないか、と私は思うわけです。つまり、その秘密を解き明かすというのは心理学を超えて社会学の領域に踏み込んでいかないといけないのではないか、と。

(って、今さらこんなことを書くと、私が某所のナポリタンの心理学的説明に全く納得できなかったからなんじゃないか、と邪推されそうですが、そんなことはありますがw)

話がそれてしまいましたが、幽霊船話は本当、面白いですね。そういえば、幽霊船でなくマグロ漁船絡みでも、そのお給料の額から始まって禁欲的な生活を強いられる(はずの)船内でのアレコレまでいろいろと都市伝説がありますし、船が「都市」伝説の舞台として人気があるのはなかなか面白い気もします。

(ところで、舞台が都市でないのに「都市伝説」と言うの?という点を疑問に思われた方はWikipediaあたりを一度、読んでみるとなかなか楽しめると思います)
  1. 2006/08/19(土) 12:43:00|
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ナポリタン風ストーリー識別のためのガイドライン

井戸の話、と言ってもサッカーではありませんが、ナポリタンみたいな話が好きな方、こういう話もありますね(結構、有名なコピペでしょうが)。

ある日、泣き声がしゃくに障ったので妹を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

5年後、些細なけんかで友達を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

10年後、酔った勢いで孕ませてしまった女を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

15年後、嫌な上司を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

20年後、介護が必要になった母が邪魔なので殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていなかった
次の日も、次の日も死体はそのままだった

ちなみにこれはちゃんとしたオチのある話です。何かナポリタンばっかり見てたせいか、何の話を見ても意味不明に感じてしまうのですが、、、
もし分からない方がいらしたら、ヒントとしては、ネットでこの話を「感動する話」として紹介している人さえいる、とだけ言っておきましょうか(笑)。

最近、この手の、一見意味がよく分からない系の話を扱うことが多かったので、ここらでちょっと思いつくままに分類でも作ってみましょうか。

1. 小咄系
文章の中(普通は最後)にちゃんとオチが書いてある。ただ、だからと言って全ての読者にオチが理解できるわけではない。

2. 考えオチ系
小咄だがオチは明記されていない。上記の井戸の話などが典型。小咄系の正統進化とも言える。

3. ウミガメ系
ある意味、考えオチ系の発展。もはや考えるだけでは真相を推理するのはほとんど不可能なため、話者にいくつかの質問を投げかけることで真相に近付いていくという対話形式のゲームとして楽しむのが本来のスタイル。ゲーム部分が抜けてお題の文章だけが流通して意味不明系になる場合も(例:「サンタさんがこない」)。

4. 心理テスト系
考えオチ系のように見えるが確実な真相は存在せず、どのように解釈するかを見ることで読者の性格や心理を窺おうとするもの。
(例:夫の同僚に一目惚れした女の葬式の話)

5. 翻訳系
本来は1や2に属する外国の話だが、言葉や文化の違いから意味不明になってしまったもの。
(例:「私の髪は長いもの」)

6. 民話系
意味不明が分からなかったり矛盾点が多々あるものの、昔から語り継がれているもの。
民話系というより民話ですなw

7. 背景知識系
何らかの特殊な背景知識を持っている人には容易に理解できるが、それ以外の人にはさっぱり理解できないもの。特に、何らかのオタクマンガ・アニメのパロディに多く見られる。

8. オマージュ系
何かの名作を下敷きにしている、あるいはそれと重ね合わせると意味が理解できるもの。
(例:「終電が過ぎてしまって困っていた」)

9. オカルト系
象徴的な表現によってしか語り得ない何かしらの(超科学・超論理的)知識体系を示唆・伝達しようとしている寓話。

10. 意味不明系
一見、意味がありそうで印象には残るものの、結局は意味が分からずいかようにでも解釈ができる話。人々の印象に残る意味不明な話を作るのは意外に難しいので、次のようなパターンで出来上がっていくのではないだろうか?

(1) 本当に精神や知能の状態がヤバくなっている人が書いた天然物
(2) 元々は上記の1,2であったものが改変や誤伝によって文章が変わってしまい、意味不明になってしまったもの
(3) 元々は上記の3,4であったものが由来が失われて意味不明になってしまったもの

11. 解釈不能系
ナポリタンのように意味不明でかつ、意味のある解釈すら拒みながら流布し続けるもの。単純な意味不明よりさらに積極的に意味不明という意味を持つ。

ナポリタン風の話を見かけたときの理解のガイドラインとして活用していただけたら・・・って、そんなガイドライン、必要としている人がいたらお目にかかりたいわ、というものですね orz
  1. 2006/08/18(金) 00:54:53|
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ヤル気ナポリタン

ナポリタンをかなり急いで調理してみたんですが、これには事情がありまして。

私がよく見に行くブログでなぜか突然、ナポリタンの解読が始まっちゃったんです↓。

「無のナポリタン。 ツァイガルニック効果」

ゆうきゆうさんは現役の精神科医、心理学者さんですし、ブログはアメブロ公式の人気ブログですし、そちらの解釈が完結してしまったら、もうその後に何を書いてもバカみたいじゃないですかw

なので、もっといろいろ具も加えたり熟成させたりしたい気持ちもあったのですが、何となく「終わったな」感を感じてしまったので、さっさと完結させることにしました。

にしても、上記のゆうきゆうさんが紹介されているナポリタンコピペにはちょっと気になる点が・・・。微妙にディテールが違うんですよね。

「胃のあたりもジンジンしてきた。」

とか、

「そのときにはもう、手遅れだった。」

とか、私の知っているナポリタンとは違う具が入っています。この新しいナポリタンコピペは何となく説明調っぽくて、不気味さが減ってしまったようにも感じますねぇ。個人的には私が知っている方のバージョンのコピペに流通してもらいたいのですが、どうなっていくのでしょう・・・。

それはともかく、ゆうきゆうさんはどのような「解釈」を付けるのか、次回の記事が楽しみです。「なぜこの話が印象に残るのか」の解説になりそうな気もしますが、個人的には「なぜこの話が(他の類話と比べてもダントツに)かくも多くの人を惹き付けるのか」について説明を聞いてみたいところです。
  1. 2006/08/13(日) 03:19:44|
  2. 雑記|
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「猿夢」後の物語---「恐怖のナポリタン」の夢解釈(後編)

「恐怖のナポリタン」とは、一つの夢的な物語---無意識の世界からのメッセージであり、そこに表れるレストランとは無意識の中の人格的な機能を持つまとまり---あなたに存在し得た人格や能力、可能性といったもの---が入っている領域を表す、というところまでを前々回前回と書いてきた。今回はその続きである。

さて、無意識とは実に広大な領域であり、それこそ最も原始的なレベルでは我々がは虫類やそれ以前の生物であったときの神経系の活動要素までもが含まれているとも言われている。だからこそ、よく森や海が無意識世界の象徴として使用されるわけだが、そんな中でも「レストラン」のような人工物の中に集まってくるものは無意識の中でもかなり人間的な機能部分になるわけだ。そして、実際、かつてあなたが幼かった頃には、この人気メニューを擁するレストランにはたくさんの人間(おそらく多くは子供たち)が集まってきていたはずだ。そう、今はいなくなってしまったその子供たちこそ、あなたの諦めてしまった夢や、実現しなかった人生を生きるはずの人格であり、あなたが殺してしまった才能や可能性を表していたのだ。

そう考えると、これはある意味では以前に紹介した「猿夢」の続きの物語であるということが分かる。「猿夢」は、あなたの中に生きる他のアナタたちがまさに殺されつつある、という危機的なメッセージを伝えるものであったが、残念ながらあなたはその悲鳴に全く耳を貸さず、目を瞑って人生を過ごしてきてしまった。そしてついには誰もいなくなった。それが今のこのレストランの状況なのである。いや、厳しいことを言えば状況はより危機的ですらある。レストランの中どころか、あなたの無意識の森を夜になるまで彷徨い歩いてさえなお、そこには何の人影も・・・夜の闇に潜んでいるはずの怪物たちですら!見つからないのである。あなたは現実の人生の中でほとんど死人同様に生き、もはや夢を見ることさえなくなって久しいのである。

生きながらにしてここまで死んだような状態になってしまうということは、この夢は基本的には中年の夢であろう。もしこれを読んでいるあなたがまだ若いのであるなら、むしろ「猿夢」を見るはずだからだ。だが、あなたがまだ若いというのにこの物語に惹き付けられているのであれば注意はしておいた方が良いだろう。あなたは強靱な精神を持ち、賢い。だからあなたの無意識は「猿夢」を飛ばして、このままだと将来、待ち受ける悲惨な姿をより直接的に警告しようとしている、ということかもしれないのだから。

さて、人影もない森の中の人のいないレストラン。だが、まだ全てが終わってしまったわけではない。そう、まだたった一人だけあなたと一緒にこのレストランにいる人物が話には登場している。レストランの店長だ。この物語の中で彼についての描写は一切ないので、彼がどんな人物かはよく分からない。それどころかいつ表れていつ消えていったのかさえ漠として知れない。彼の印象はまるで影のようだが、実際にそれこそがまさに彼の正体で、この店長とはあなたの影なのである。そう、いわゆる「シャドー」というものだ。あなたの内の子供たちは全て消えてしまったが、あなたの影だけは残ったのである。

「シャドー」とは、生きられなかった「あなた」のことである。ある程度の年月を生きた人なら誰しも、挫折した希望や抑圧した欲望、活躍の機会を得なかった性格の一面や閉じこめてきた人格などを心の中に持つことだろう。そうした、本来はあなたの中に存在していたはずだが、表に出ないままに心の奥深く置き去りにされてきたものたち、それがシャドーである。シャドーが何か、ということをはっきりと述べることはなかなか難しく、それゆえ「影」というシンボリックな表現によってそれは定義されているのであるが、この物語においてはシャドーはあなたの人生を影から見つめてきた、普段は表に出ないもう一人のあなた、というような位置付けにあるように思われる。

一般的にシャドーが劇的な(しかも主に悲劇的な)役割を果たす局面としては、いわゆる「魔が差す」場合、つまり表面的には人生がうまくいっているように「見える」ときに、その「うまくいっている」人生を前に進めるために犠牲にしてきたものたちが転落を唆すような局面が多いが、ここで表れるシャドーは弱々しく、もはやそうした力すら持っていないように思われる。この話の主人公はおそらく、何かのために何かを犠牲にすることさえなく、生きる屍として、自分の中の何物をも内省することなく過ごしてきたのではないだろうか。

そのシャドー---ここではあなたの無意識の代弁者でもある---が必死になって伝えるメッセージ、それが変にしょっぱいナポリタンなのである。ナポリタンとは、様々な具材を混ぜ合わせて調理するもので、それが滅茶苦茶なことになっているというのはつまり、あなたがバランスを崩した人生を送っているということに対する警告なのだ。差し障りのない解釈をすればそんなところになるのではないだろうか。



だが実は、この「変にしょっぱいナポリタン」について、私には初読時からどうしても消せないある別の印象がある。この話を初めて読んだとき、私が真っ先に思い浮かべたのは「ウミガメのスープ」の話である。「味がおかしい」ということに込められた重大な意味、一見意味不明な筋書き、そして物語全体に漂う不穏な雰囲気・・・。

ナポリタンから真っ先に連想されるビジュアルは血の色である赤だし、欠かすことの出来ない具材のベーコンは何かしらの加工を行った肉を示唆する。麺は引き出された臓物、あるいは屍肉に湧く蛆を思い起こさせ、異常な塩味は無理矢理に隠そうとした「何か」の味を意味する・・・。

ここまで書けば、私が初読時に真っ先にイメージしたものが「ウミガメのスープ」でもテーマとなっていた人肉食の禁忌であることは書くまでもないだろうが、ともかく、私はその印象を消すことができないのだ。
そして引き起こされる頭痛。不快な記憶に記憶に触れそうになったときの反応・・・。

「人肉食」というのは、必ずしも物理的に誰かを殺し、その死体を食べた、ということを意味するわけではない。誰かを肉体的、あるいは精神的、または社会的に葬り去り、それによって自分の利益を実現したとしたら、それはその人を殺し、その肉を喰らうのと同じことではないだろうか。その味は到底、忘れられるものではあるまい。

真実はこうだ。「私」は誰かを陥れた。子供時代のことだ。対象は死んだか再起不能になった。そのため、私の悪事は永遠に露呈することはないだろう。私はかの者の人生を奪い去ったのだ。それもただの一時の私利のために。その代償は高くついた。誰も私を罰し得ないのであれば、私が私を罰しないといけない。誰かの人生を奪うという重荷は子供が背負いきれるものではない。私はその記憶を失くし、その代わりに自分の人生を差し出した。かの者が残りの人生を「死人」として生きるのであれば、私も残りの人生を屍として生きなくてはならない・・・。

だが、私は今や大人になった。もう良いだろう。罪を償うには他の生き方もあり得るということを十分に知っているのだ。

作り直されたもう一皿のナポリタン。それはやり直しを意味するのだ。そして、それに対して支払いは要らない。もはや自分を傷つける必要はない、ということなのだ。罪を胸に刻み、償いながら生きていくと言うこと。意識のレベルでは非常に辛い生き方になることは間違いない。だが、無意識は告げる。それに立ち向かえる時期が来た、と。
  1. 2006/08/13(日) 02:40:52|
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「怪談新耳袋」と黒川芽以

夏だ!お盆だ!

ということで、最近はよく怖い系のDVDをレンタルしてきたりなんかしている。特に今年は何となく和物っぽい気分で、「怪談新耳袋」シリーズあたりでも制覇してみようかな、なんて思っていたり。なんで、たまにはちょっと趣向を変えてそんな話題でも(あんまり毎回、「意識が・・無意識が・・」とか言ってるのもアレだしw)。

「怪談新耳袋」というのは1話5~10分程度の怪談を何話も詰め込んだ超ショートフィルム集で、元々、1話1,2ページの怪談を何話も詰め込んだ書籍であったものを映像化したものなのだが、はっきり言って書籍よりも映像化されたものの方が断然、良い。一般的には活字をビジュアル化しても活字を超えられないということの方が普通なので、ここまで圧倒的に活字媒体よりも映像媒体の方が優れている例も珍しかろう。まあ、単に活字媒体の方がレベルが低すぎるだけなのかもしれないが。

正直言って、活字媒体の「新耳袋」シリーズは怖くもなければ面白くもなく、個人的には立ち読みするのさえ苦痛を感じるシロモノで、何でこんなものが売れているのかさっぱり理解できないのである。ただ、これは「耳袋」シリーズの制作者がダメダメだということではなく、彼らの名誉を擁護するならば、大体からして「怪談」というもの自体が、実はもっとも活字化が難しい物語ジャンルなのだから。

そもそも恐怖体験というものは、実際に恐怖を体験するからこそ怖いのであって、それを言葉で伝えるというのは極めて難しい。もし、あなたが暗がりで血まみれの女性の幽霊を見たらそれはもう問答無用に恐ろしいことだと思うが、それがお話として血まみれの女性の幽霊が出たよ、と聞かされるだけでは怖くも何ともないことは容易に察せられることと思う。
(そして、活字媒体の「耳袋」はまさにそういう単に「幽霊が出たんだって!怖いでしょ!?」というような話を延々と綴っているだけなのが怖くも面白くもない理由なのだが・・・)

それを補うためにはどうしても表現上のテクニックというものが必要になるのであり、そのため多くの怪談は元々「語り」によって伝えられてきたわけだし、あえて文章にしようと試みる人たちは文章表現のテクニックを盛り込んで恐怖の演出に腐心してきたわけだ。ただ、そうは言っても、やっぱりこういう素朴な怪談を伝えるにあたって何よりも強力な表現上の武器を有しているのがやっぱりAV(映像と音声)だろう。そしてまた逆に、複雑な構成や巧妙な仕掛けを設置しにくいAV的表現が、恐怖の表現において活字に対して最も大きなアドバンテージを持つのもこうした素朴な「怪談」の映像化にあることも言えるわけだ。そう考えると、映像化された新耳袋が活字を圧倒し、案外に素晴らしいものになっていたとしても何の不思議もないわけである。

さてさて、以前に新耳袋批判を少々書いたので今日は擁護するつもりが話が少々、散らばってしまったが、とにかくDVDの「怪談新耳袋」は意外にも結構、面白いのである。ただ、この評価はあくまでも暫定的なもの、と言っておかなくてはなるまい。というのは、私は今までにまだ「三人来るぞ編」、「ふたりぼっち編」、「第2夜」と「幽霊マンション」(これだけは劇場公開用の長編物)、および現在テレビで再放送中の何話かしか見ていないのだから。そして、ちょっと詳しい人ならこれだけでは決して全体を語れないということもよく分かるだろう。特に最初に挙げた2編は、いずれも「第4シリーズ」という特定時期に制作されたもので監督こそ各話バラバラであるものの、何よりも大きな特徴として、ほとんどの主演が黒川芽以なのだ!
(そして劇場用の「幽霊マンション」も主演は黒川芽以!)

要するに、私は「新耳袋」が良い、と言っているのではなく、「黒川芽以」が良い、と言っている可能性があるわけで、事実、「黒川芽以」の話と非「黒川芽以」の話を比べた場合、今のところの評価としてそのように断定せざるを得ないように感じていたりもするのだ。

こんなことを書くと、このアイドルオタクが何を言うか、みたいに思われるかもしれないのでまず私は断じてアイドルオタクなどではないことを断っておく。いや、もちろんアイドル(というか可愛い女の子)は無条件に好きだし、若い女の子でもほぼ無条件に好きだし、そもそも女性に対するストライクゾーン自体が聖人並みに広い心の持ち主なのかもしれないが、そんなことはともかく、実際、黒川芽以は実に良い雰囲気を映像に添えるのである。「三人来るぞ編」の方を見たのは結構前でそのときにも「良いねぇ~」と思っていたのだが、時間をおいて「ふたりぼっち編」を見てそれは確信に変わり、その後、比較対象としての「第二夜」を見てそれは今や断定へと行き着いた。ホラー映画はヒロインが重要!ということに同意してくれる人は多いと思うが、まさに黒川芽以こそは現代日本におけるホラーヒロインの女王たるにふさわしい、とまで言い切ってしまおう。

ホラーヒロインの絶対条件はまず何よりも可愛くなくてはならないわけだが、単に可愛ければ良いというものでは当然無い。演技力も必要?そんなことも女優であるからには当然である。だが、可愛くて演技がうまいだけなら他にもざらにいる。(実際、「第二夜」の最初の話に出ていた内山理名だって可愛いし好演を見せていて個人的には大好きだし、「ねぼけ眼」の榮倉奈々もその愛くるしさに悶絶しそうになったし、年齢が高いところで言えば「帰ってきた」の中原翔子の背中からの眺めには主人公同様にニヤケが止まらなかったし、「スナップ写真」のお化け役の女の子でさえ・・・ってもうええっちゅーねんw)

私がホラーヒロインとして黒川芽以をなぜにここまで評価するのか。それは何というか、「びみょ~」なところにあるような気がする。たとえばルックス。テカった唇の大写しから始まる「ふたりぼっち編」第一話での彼女は大変に明るく可愛らしいが、そうかと思えば「幽霊マンション」で背中を丸め髪をひっつめた陰気な姿などは最近、話題を振りまいた某殺人事件の容疑者(を逮捕前にキレイに撮った絵w)にそっくりだ。元々、芸能人なんて化粧とライティング次第で監督の好きなように絵を作れてしまうのだろうし、また本人の演技や役作りによっても見せ方を大きく変えられるという面はあるのだろうけど、彼女のルックス変化はそういうのとはまた少し違ったもののような気がするのだ。

たとえば、健全なルックス変化の例として、少々、極端だが「特命係長・只野仁」におけるカッコイイ高橋克典とカッコ悪い高橋克典を考えてみよう(って、なんでわざわざそんな変な例を?とか言われそうだが個人的なシュミなんで我慢してくれたまえ)。この場合、見え方こそ変化はするものの、基本的にはその両者はどちらも同じ高橋克典の同じ面(おそらく「役者」という面)に由来するわけで、我々は、彼がカッコイイ状態とカッコ悪い状態を往復するという不安定なドラマを確かな安心感を持って見ることができるわけだ。

ところが黒川芽以の場合はどうだろう?その変化の質はあたかも太陽と月を見るかのようで、まるで違う人間を見てるような錯覚すら覚え、到底、安心感を持って見ることなど出来ない。彼女がただそこにいるだけで、不安定なものが不安定なまま突きつけられる言いしれぬ不安感をムードとして感じさせられることになるわけだ。

そうした不安定性、二面性は、彼女の立ち位置にも自然、にじみ出てくることになる。伝統的なホラー映画のヒロインというのは、徹底してヒロインであり被害者であり正義であった。過去のホラー映画を心底コケにしきった「スクリーム」においてさえもまだ、ヒロインは観客との間に正義を共有していた。最近ではもちろん、そういうパターン破壊は平気で行われるようになり、立ち位置の入れ替わり---つまり、ヒロインであったはずのものが実は怪物だった---というようなことは珍しくないどころか陳腐ささえ感じさせる「テクニック」となっているわけだが、それはあくまでも単なるお話の中の演出であって、実際に我々に、その雰囲気においてこちら側の人であるかあちら側の人であるか、そのブレによる不安を体現して見せてくれる作品や役者はまだほとんど存在していないのではないだろうか?そして、そういう曖昧で微妙な雰囲気を空気として一人で実現できてしまうヒロインこそが新耳袋における黒川芽以なのである・・・という可能性を、少し感じた。

だが、今のところ、そうした空気感はショートフィルムでしか有効に活用されていないような気がして残念に思う。怪談のショートフィルムはある意味、雰囲気が全てなので、怪談向きでない役者さんを使えばそれだけで怪談としてはぶち壊しだし(例:「一滴の血」、「現場調書」、「電車」)、逆も真(「あいさつ」)となる。ところが、長編では雰囲気だけで話を作っていくことは難しいためか、あるいは制作スタッフが張り切りすぎてしまうのか、どうしてもお話を作り込みたくなってしまうようだ。

その最たる例が「幽霊マンション」だろう。あれは黒川芽以の雰囲気をストーリーで再表現するというまるでコントの解説のようなことになってしまっていて、要するに非常にくどい。本当は雰囲気を邪魔しない程度のお話を添えれば良かったところをやりすぎてしまったために、全てがギャグっぽく見えるのである。黒川芽以のサングラスとか、吹越満のマッチ棒ならべとかの小細工が逆効果にしかなっていなかったのは本当に残念だ。

まあただ、「幽霊マンション」の場合は役者を活かすとかそういうこと以前の問題で、話と脚本の出来がいまいち過ぎるというのもあるのだが(脚本担当の女性の方が私的には大変、好みだったりするのでこの点の文句はあまり言いたくないのだがw)。話の構成的な点で最大の疑問点を挙げれば、最初だけ倒叙的に話を構成したりテロップを入れたりしているところ。あの構成に何の意味があるのかはまるで理解できなかった。ああいうやり方のおかげで最初の5分を見ただけで一気に空気はギャグ映画の方に張り付いてしまい、全く興ざめなのである。もし構成に凝りたいのであれば、それこそエピソードの寄せ集めを無理矢理1本にせずにしっかりとしたオムニバスでやれば良かったのに、と思えてならない。

また、内容的な点で言えば、敵がそもそもたかが小娘の霊のくせに霊力がやたら滅多に強い点も無理がありすぎる。あそこまで理不尽な仕打ちを受ければ人間、恐怖よりも怒りが湧いてくるものであり、観客は怒りを感じるのにそれを無視して登場人物が勝手に「怖い怖い」と盛り上がれば、観客の方は「もうお前らなんて知らない」と全く映画に入り込めなくなってしまうというものだ。そもそも幽霊役の女の子も普通に美形でルックス的に怖くなかったしねぇ。美少女女子高生の幽霊が制服姿で表れて怖がれ、と言われてもそりゃ無理ってもんでしょw

そういうわけで、「幽霊マンション」は残念ながら恐怖映画としては私は評価しないが、黒川芽以礼賛映画として見るならばかなり良い映画となり得るのかもしれない。彼女の明るい面の魅力はあまり楽しめないものの、ある一面の魅力は十二分に引き出されているので、もしもっと若い時分に見ていたなら一番好きな「青春映画」になっていた可能性すらあるかもしれないと感じた。ちょうど、原田知世の「時をかける少女」がそうなったかのように・・・。まあ、多少、大げさに書いているきらいはあるものの、少なくとも映画が終わった後、主題歌CDでも買ってしまおうか、という気にはさせられるほどの、プライベートな青春映画的な要素は存在しているのである。

話がさっぱりまとまらなくなってしまった・・・。

せっかくだから私が見た新耳袋の他の話についても小評でもつけておこう。すでに御覧になった方は、ご自身の評価と比較して私のズレっぷりを笑って楽しんでいただければと思う。


★ 第2夜
総評:最初の話は良かったんだけど、怪談的にはどんどんテンションが下がっていくような感じ。最後の方で多少、盛り返してはくれたけど・・・。

「さとり」
新しさはないけど結構、好き。手堅い。良いんじゃない。
内山理名、可愛いしw

「待ち時間」
ちょっと消化不良っぽい。この程度の後日談なら、ない方が良いかな?

「第三診療室 前編」「第三診療室 後編」
悪くはないけど2話使うほどの話か?もっとエロイ方が良いのにw

「忘れ物」
田畑智子の好演が無駄死にって感じ。
まあ、そもそも彼女はNHKのドラマとかの方が良いのかもしれないが。

「電車」
もっと面白い話にできるネタだと思うんだけどねぇ・・・。
女の喋りが無駄に長い。でも実際、女の喋りってそんなもんかw

「一滴の血」
意味不明だが深みがないのでムカツクだけw

「石つぶて」
悪くはないけど怖くはない。ナレーションとか演出が大仰過ぎ。

「恋人」
安っぽい特撮が全てを台無しに
あれじゃ、どう見ても笑うところだろw

「百物語の取材」
まあ結構、良い方。オチがストレートなんで、もう一趣向、何か欲しかった。


★ 三人来るぞ編
総評:どれも手堅く、普通に怪談として楽しめる。最初の話を楽しめる人なら満足度は高いと思う。全体の流れも良いし、新耳袋シリーズの初見がこれだった私はラッキーだったかも。

「オルゴール」
私が見た新耳袋の中では「訪問者」と並んで恐怖度は最上位ランクの話。
ただ、新耳袋では非常にありがちなオチがない話なので、この話を楽しめるかどうかで、新耳袋的なものが楽しめるかどうかが決まる。

「スナップ写真」
何となくもんぺに萌えたw
話としてもありがちではあるけどうまくまとめていると思う。

「隣りの女」
悪くないね。
結構、それなりに怖かったはずなのにあまり印象に残っていないのはなぜだろう?

「ヘアピン」
うん、これも結構、怖い。

「あいさつ」
あまり怖くはないけど良い味出てる。

「舞ちゃんの声」
いやさぁ、個人的にはこういう趣向、キライじゃないけどねぇ。
怪談ではないわな。

「ねぼけ眼」
女の子の可愛さだけはよく覚えているw
話としても悪くはなかったように記憶している。

「二週目」
まあありがちだわな。悪くはないけど。

「吊り下がる」
まあ悪くはなかった(はず)。

「三人来るぞ」
悪くなかったと思うけど、詳細はいまいち思い出せないや・・。


★ ふたりぼっち編
総評:純粋な怖い系の話が少ないので、怪談を楽しみたいなら「三人~」の方が良いかもしれない。私と同じような趣味の人は「訪問者」と後半の芽以ちゃん祭りだけでも見る価値ありだが。

「お初天神の幽霊」
とりあえずペ・ヨンジュンみたいなエロガキが芽以ちゃんと共演しているのがムカつくw

「訪問者」
怖いね。文句のない出来映え。
女の子が二人とも超可愛いしw

「欠席届」
ありがちな話なだけに工夫が足りないね。

「帰ってきた」
悪くない。でももっとエロくても良かったw

「終電」
これも悪くはない。楽しめた。

「約束」
もうちょいひねりが欲しいかな。

「ふたりぼっち」
やっぱ芽以ちゃん出ると締まるね。
お化けのルックスが「訪問者」と一緒っぽいのには萎えるけどw

「未放送」
これも悪くはないけど、もうちょい怖さを追求して欲しかった。
あと、男のビビリ演技が下手すぎなのは何とかして欲しい。
手が震えすぎ。お前はヤク中か!とw

「獣の臭い」
この話では、芽以ちゃんはもっと怖がる一辺倒の方が良かったかな?とは思うけど、悪くはない。

「青いレインコート」
後日談とか説明が欲しくなる話。
とりあえず先輩、羨ましすぎ。私が先輩だったら放映できない話になっていたのは間違いないw
このDVDで、「訪問者」よりこっちの方が印象に残った、という人は、たぶん「ナポリタン」とか大好きなんじゃないでしょうか?

<PS>
そうそう、新耳袋のDVD、なにげにおまけが結構、楽しめる。副音声で制作者の解説や雑談のコメントを聞きながら本編を見れるという趣向はとても良い。原作者が暗いところで喋るだけの一人怪談もヘタすると本編以上に楽しめるし。

でも、メイキングとかオーディオコメンタリーとか見てると、スタッフとかは芽以ちゃんをそんなに高く評価していなそうなところが透けて見えてちょっと悲しい。メイキング見てるとちょっと電波っぽいようなこと言ってたりもするし、もしかしたら共演者やスタッフに好かれるタイプの子ではないんですかねぇ・・・。

<追記>
ケツメイシの「男女6人夏物語」という曲のPVに黒川芽以が出演しているということを聞いたのでちょっと見てみた。ホラーもんばっかり見てああだこうだ言うのもかわいそうだしw

う~ん・・・幽霊マンションでは役作りでやっているのかと思っていたんだけど、ちょい猫背っぽいのはデフォルトだったのかも?若いときはどんな姿勢でもそれなりに見えるけど、年取ってくると姿勢は響くから長く女優をやるつもりならちょっと気をつけた方が良いんジャマイカ?と思った。いや、余計なお世話ですが。

あと、どんな話か忘れていた「三人来るぞ」も再見。良いじゃないですか。これはお化け視点で何度も見て楽しむものだねw
  1. 2006/08/13(日) 01:13:28|
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変人はサンタクロース

指名手配犯はたった1日で捕まえることができました。
uhaさん、どうもありがとうございました!

ということで、mさんが探していた「このナポリタンと同じころにはやった話なんですが少女がたくさんのプレゼントをもらって翌日消えてしまう話」は、uhaさんが教えてくださった情報によって次の話だということが分かりました。
(コピペのようですし全文紹介します)

「サンタさんがこない」

ある昼下がり。
小鳥のさえずる森の中を、一人の少女が走っていた。
「お母さん!どこにいるの?」
叫ぶ少女。だが答えは無い。
そのうち少女は、とある家の前に辿り着いた。
「ここね!ここにいるのね!」
そう言って少女は扉を開けた。
だがそこにあったのは、たった一つの日記帳。
何も無い家の中心にポツリと置かれている。
少女はそっと手に取り、読み始めた。

5月16日
明日は楽しい楽しいクリスマス。
プレゼントがいっぱい。とっても楽しみ。

5月17日
サンタさんがこない。
サンタさんがこない。
サンタさんがこない。

5月18日
昨日はとっても楽しかった。
サンタさんにいっぱいプレゼントもらっちゃった。
でもおかしいなぁ。そのプレゼントどこに置いたんだろう?

9月33日
時計の針がね、ゆっくりゆっくり私に近づいてくるの。

12月65日
今日ね、お外に出てみたの。
そしたら人がいっぱいいたんだよ。
いっぱいいっぱいいたんだよ。
でもみんな変な色だった。
なんでかな?

少女は突然、日記帳を閉じた。少女は気付いてしまったのだ。
そう。少女は、気付いてしまったのだ…。

この「サンタさんがこない」については、解釈不能系の話ではなく、ウミガメ系の話であるとの説が一応、有力みたいですね。ウミガメ系とは、「ウミガメのスープ」に代表されるような推理ゲームのことで、出題者は一見、意味不明な文章を出して、回答者からの質問に答えながらその真相を推理させる、というような遊び方をします。「サンタさんがこない」は、元々、このようなゲームとして出題された文章の部分だけが流通したもの、というわけです。

ただ、私がちょっと調べた限りでは、その説はどうもはっきりとしたソースに基づく話ではないようにも感じました。他にもいろいろと説があるみたいですが、いずれにしてもこのあたりの話で議論は出尽くしているようですから、ネタとしては終了しているんでしょうね。

この話には今さら混ぜてもらう余地がなかったのは残念ですが、個人的には上記の掲示板の流れが非常に面白かったので文句はないです。最初は紳士的に振る舞っているのに徐々に壊れていくコテハン、恐いものがありましたw

・・・と言いつつ、私もあんまり人のことを言えたものではないですが、、、
  1. 2006/08/11(金) 17:18:31|
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【指名】番組の途中ですが【手配】

ナポリタン話の途中ですが、ここでお知らせというかお願いです。

mさんという方からナポリタンに関連して

「このナポリタンと同じころにはやった話なんですが少女がたくさんのプレゼントをもらって翌日消えてしまう話をご存じないでしょうか?」

というご質問のコメントを頂きました。

私はそういう話は全く聞いたことがなく、ちょっとググってみても分かりません。ただ、何となくさわりを聞いた感じではそちらの話も面白そうです。

そこで、もしこのブログを読んでくださる方の中でその少女のお話をご存じの方がいらっしゃいましたら、是非、どんな話なのか教えてください。よろしくお願いします。

追伸:
「ナポリタン」みたいな話に関連して、ときどき、そんな誰が作ったかもしれない意味不明な戯言みたいなものを真剣に解釈しようとして面白い?というような意見を見かけるのですが、ここのブログのスタンスとしては元の話は誰かの創作や捏造であっても一向に構いません。元々、「都市伝説」がメインのネタですし(女子高生に向けて「都市伝説」の蘊蓄を語っていくはずだったんですけどねぇ)、物語作者の意図(というか悪意)を気にしだしたらこんなことはやってられません。そんなことはどうでも良いんですよ。私が気にしているのは女子高生の読者がつくのかどうか、ということだけですから(笑)。

いやいや、真面目な話、私が興味を持っている点は、その話の発生の経緯や作者が意図していた意味ではなく、なぜその話が人々を惹き付けるのか、という部分なのです。ある物語を創作する際、作者がどんなに高尚な意匠を隠し、緻密に話を組み上げたとしても、それが人々を惹き付けるかどうかは全くの別問題です。つまり、話の魅力というものはある意味、作者の能力や意図の限界を超えたところにあるわけです。そのため、ある話が異常な人気を集めているのであれば、たとえ物語が一見くだらなく見えても、やはりそこには何らかの作者の意図や知力を超えた偉大な要素の降臨があったのではないか、と考えられます。

もし、あなたがある話をとてつもなく---誰かにそれを表明したいほどに---くだらなく感じるのであれば、実はあなたもその話の魅力に引っかけられたのかもしれませんよ。心理学で言うところの「否認」というやつですね。

そう、ついでに同じような注意書きをこのブログについてもしておいた方が良いかもしれません。このブログでは、扱う題材の性質上、人間の意識や無意識といったものに踏み込む記事が多く出てきます。私はそうしたタームを大した意味もなく---せいぜい、どう書けば自分が賢く見られるだろうか---程度で使っていたりもするのですが、それらのタームはまるで鏡のような働きをすることもあり得ます。

つまり、あなたは私の意図とは関係なくこのブログ記事から何か他のもの---おそらくはあなたの心の中の何か---を見てしまう可能性がある、ということです。そういうことは他のどんな書き物についても言えることではありますが、その手のトリガーとなりやすいタームが無造作に書き散らかされていることから、特にこれ系のホームページやブログはあたかも以前に書いた呪術装置のように機能してしまう可能性は高いのかもしれません。特により更新頻度が高く、また読者の側からも更新が期待される---すなわち生きているかのように扱われる---ブログはより危険度が高いように個人的には感じています。

万一、このブログ(や他の怪談系のブログ)をお読みになって不快に感じたり気分が悪くなるようなことがあれば、ただちに購読を中止することを強くお勧めします。

追伸の追伸:
だからと言って、私がこのブログを呪術装置として皆様から「何か」を吸い上げている、というなんてことはありませんから(笑)。実際、アフィリエイトも貼っていないこのブログでは、ただの1円も皆様から吸い上げることができません、、、

あ、でも、応援コメントからは元気を頂いていますよ!本当に感謝しています。
(レスを忘れてしまったり、レスが遅くなったりすることも多くて申し訳ありませんが・・・)
もちろん、「女子高生」にこだわっているわけではないので、どなたでもお気軽にコメントして頂ければと思います。
  1. 2006/08/10(木) 01:13:24|
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無意識の森へようこそ---「恐怖のナポリタン」の夢解釈(前編)

前回から少々、間が空いてしまったが、予定通り「恐怖のナポリタン」を夢---あるいはユングの言う元型的な要素を持つ物語---と見立て、その意味を解釈していきたいと思う。一応、物語の全文を改めて再掲しておこう。
(各行頭の行番号は便宜上、私が振ったもので原文にはない)

「恐怖のナポリタン」

(01) ある日、私は森に迷ってしまった。
(02) 夜になりお腹も減ってきた。
(03) そんな中、一軒のお店を見つけた。
(04) 「ここはとあるレストラン」
(05) 変な名前の店だ。
(06) 私は人気メニューの「ナポリタン」を注文する。
(07) 数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。
(08) ・・・なんか変だ。しょっぱい。変にしょっぱい。頭が痛い。
(09) 私は苦情を言った。
(10) 店長:「すいません作り直します。御代も結構です。」
(11) 数分後、ナポリタンがくる。私は食べる。今度は平気みたいだ。
(12) 私は店をでる。
(13) しばらくして、私は気づいてしまった・・・
(14) ここはとあるレストラン・・・
(15) 人気メニューは・・・ナポリタン・・・

さて、それでは「恐怖のナポリタン」の夢世界へと沈んでいこうか・・・。

全ての夢とは無意識との接触であるわけだが、特に「恐怖のナポリタン」では無意識との接触それ自体が夢全体の大きなテーマとなっている。このことは夢の舞台が夜の森であることからも明白である。意識が消失する夜とは無意識の支配する領域であり、また何が潜んでいるかを窺い知れない森というものも典型的な無意識の領域の象徴である。この物語は、「私」の意識が無意識の領域へと足を踏み入れていく物語なのである。

だが、それは決して「私」の自我自らが望んだ体験ではない。私がこの森に来た理由やその行く先は知れない。「私」はいつの間にか暗い森の中にいて、それも随分と長い間、目的地もないというのに迷っているのだ。これはこの旅が自らが積極的に何らかの目的を抱えて挑む冒険ではなく、無意識の側からの誘いであることを示している。無意識は何らかのメッセージを「私」に与えたいがために「私」をここに引き寄せたのである。

私は夜になるまで、と随分長い間、森の中を歩き回り、そしてそれにもかかわらずその間、何者をも目にしなかった。後でこのことにもある意味が暗示されているということが分かるのだが、ひとまず先に進もう。私は迷った挙げ句、一軒のレストランへとたどり着く。「ここはとあるレストラン」へと。

ここまでが物語の舞台である。そして、ここからいよいよ物語は本論に入り、私はそのレストランの中で奇妙な体験をするわけだが、この意味は先にこの物語最大の謎を解明しておかないと読み解くことはできない。この物語最大の謎とは・・・そう、何と言っても最後の3行、私は何に気付いてしまったのか?という部分である。

この最後の3行の読み方は、国語の教科書的には2通り考えられるだろう。一つは、私が気付いた「何か」、とは全く未知の何かであって、それは「ここはとあるレストラン」という名前と、その人気メニューがナポリタンであることを手がかりにして推測できるものになる、という読み方。そしてもう一つは、私が気付いた「何か」とは、次の2行に書かれた「ここはとあるレストラン」やナポリタンに関する何らかの情報である、という読み方である。

どちらの読み方も大変、魅力的ではあるのだが、前者の解釈を取るにはあまりに情報が少なすぎる。前者の解釈は、この話の裏に「隠されている」はずの何らかの別の物語の存在を必要とするように思われるのである。そして、ここは「恐怖のナポリタン」を読む個人個人による解釈方法の分かれ道になる。もしあなたが、この物語を読んだときに、裏に隠されたストーリーとしてイメージできる何かしら別の物語(自分の想像でも既存の物語でも何でも良い)を思い浮かべることができたなら、あなたにとっての「恐怖のナポリタン」の秘密とは、その物語そのものになる。そこには全く何の論理的な根拠の存在も必要ない。あなたがなぜかその物語をイメージしたのであるなら、それが正解なのである。この物語はそのような仕掛けなのだ。

だが、もしあなたが何らかのはっきりとしたストーリーを思い浮かべることができなかった場合、あなたは後者の読み解き方---つまり、最後の3行を、私はレストランやナポリタンの意味やそれらに関する何らかの情報に気付いた、と解するやり方---を取ることになり、引き続き、私と一緒にこの物語の解釈を進めていくことになる。さあ、先に進もう。

私は、一体、レストランやナポリタンについて何に気付いたというのだろうか? この最も自然な解釈は、そのように喋るときの心情を思い浮かべてみれば自ずと明らかになる。そう、私はこの、人気メニューをナポリタンとする「ここはとあるレストラン」にかつて来たことがあるのだ!それはあまりに古い記憶で、あまりに長い間忘れていたことであったのですぐには思い出せなかったのだが、私は幼い頃、この「ここはとあるレストラン」に何回も来たことがあったのだ。

実は、この事実は物語の中で、実に3回も強烈に暗示されている。まず、もっとも分かりやすい手がかりは6行目、「人気メニューの『ナポリタン』」のくだりだ。この物語を最初から読んでいったとき、多くの人は、まず一番最初にここで「あれ?」と感じることになるのではないだろうか? なぜ、「私」は人気メニューがナポリタンであることを知っているのだろうか?という疑問だ。言うまでもなく、これ以前には(そして結果的にはこれ以降にも)ナポリタンが人気メニューであることに関する説明は存在しない。多くの読者は、ひとまずメニューか何かにそのようなことが書いてあったのだろう、と仮置きして読み進めることになるのだが、もしこれが大して意味を持たない情報であるのなら、わざわざこんなところ---何しろ物語で最初に登場する「説明の不在」である---で引っかかりを作る意味もないし、また逆にそんなに心に引っかかりを覚えることもないのである。

これは叙述トリックとも言うべき巧妙な記述だ。真相は「私」はナポリタンが人気メニューであることをすでに知っていたということなのだ。ただし、それは無意識的なレベルでの知識であり、この段階ではまだそのことを「知って」はいるが「気付いて」はいない。この微妙なニュアンスを、唐突に記述された説明不在の「人気メニューの『ナポリタン』」は実に良く表現していると思う。

私が以前にこのレストランに来たことがあることを教えるもう一つの鍵はレストランの名前にある。通常、夢に表れる事物の名前はいい加減なようでいて実に深い意味を持っていたりするものだ。ところが、このレストランには実質的に名前が付けられていない。夢は、このレストランについて、わざわざ「ここは、とある(特に名前は問題としない)レストランですよ」と語りかけているのだ。その説明自体をとりあえずの名前にしてしまうとは実に洒落たやり方である。そして、名前を持たないにもかかわらず、このレストランに名前が不要であるという事実自体は強いメッセージとして与えられているのだ。これが意味することは、このレストランは「あれだよ」と言われれば「あれね」と了解されるような、無意識と意識の間では説明不要なものである、ということなのだ。意識は忘れてしまったが、このレストランにはすでに何度も足を運んでいたのである(そして、もっと言えば、この無意識と意識との間で「レストラン」の指すものについて説明不要で了解が成立するということは、単に過去の夢でここに来たことがある、以上の意味があることなのだが)。

また、私には、この名前を付ける必要のない名前を持つということの意味について、実はもう一つの意味がイメージされるのだが、それは後で触れよう。

最後の鍵は「ナポリタン」にある。「ナポリタン」について、あなたはどんなイメージを持っているだろうか? たとえば、あなたがそれなりの年齢の大人だとして、パスタを食べるような店に行って「ナポリタン」を頼むだろうか? 普通は頼むまい。たとえば「夏野菜と魚貝の何とかーナ風何とかチーノ」みたいな、もっと長ったらしい小洒落た名前の付いたものを頼むのではないか? そう、ナポリタンはどちらかと言えばお子様の食べ物だし、それ以前に「昔の」食べ物なのである。

実際、私が子供の頃は、「スパゲッティー」と言えば「ナポリタン」か「ミートソース」が定番かつ人気メニューで、そもそもそれ以外の「スパゲッティー」など存在しなかったのだ。「明太子」やら「ペペロンチーノ」やら、というかそれ以前に「パスタ」というものが存在していなかったのだから。残念ながら私は「ミートソース派」---というのは、幼いときにたった一度だけ何かの機会に連れて行ってもらった上野精養軒でミートソースを食べて大きな衝撃を受けたという幸福な思い出があるからなのだが---ではあったが、「スパゲッティー」は本当に我々の人気メニューであった。

人気メニューがナポリタンであるレストラン・・・それはもう完全に子供の世界、幼く幸せだった頃の空想の産物なのである。私はその夢の中の「レストラン」に幼い頃、何度も何度も遊びに来ていたのだ。

だが、私がそのことを思い出すのはようやくレストランを出てから、なのである。私はなぜ、そんなにも気付かなかったのか? それはもちろん、あまりに長い間足を運んでいなかったから、ということが大きいが、おそらくレストランの姿がかつての栄華とはかけ離れたものへと変貌していたから、ということもあるだろう。そう、このレストラン、かつては「人気メニュー」を擁するくらいに多くの子供たちで賑わい、夢を与えていたものだったのだ。それが今では店の中にはただ一人、店長を除いて誰の人影も見えないのである。大人になってから、何だか古めかしく賑わいもなくなってしまった上野精養軒で記憶とは全然違うミートソースを食べた私には痛いほど鮮明にイメージできる情景だ・・・。

さて、ここまで書いてくると、このレストランが一体何であるのかが、見えてくる。このレストランは、無意識の中でもかなり人格的な部分---あなたに存在し得た人格や能力、可能性といったもの---が入ってくる世界なのである。

(後編へ続く)
  1. 2006/08/10(木) 00:33:22|
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やっと分かった、「恐怖のナポリタン」の本当の意味

先月のアクセスログの検索ワードランキングをチェックしてみたら、相変わらず「恐怖のナポリタン」が第一位。しかもブッちぎりである。「都市伝説」や「怪談」などよりもはるかに多いのである。今やこのブログに対する検索の半分はナポリタン関係となっていたりするのには本当に驚かされた。
(「恐怖のナポリタン」って何?という方は、こちらの記事をどうぞ)

「恐怖のナポリタン」はすでに古典的なコピペのはずだ。にもかかわらず、いまだにその人気は衰えるどころか伸び続けてすらいる。多くの人がこの「ナポリタン」に惹き付けられ、この物語に対してどうにか納得のいく形で解釈を求め迷っている。それも実に長い間・・・・・・。
そうしたネットの闇を彷徨う数多くの人たちの姿をイメージし、ふと、その意味を考えたとき、突如、ひらめいたのである。そう、やっと分かったのだ。「恐怖のナポリタン」とは一体、何であるのか、ということが!

数多くの人たちがこの一見意味不明な、それどころかまるで全ての解釈すらをも拒むかのようなとびっきりナンセンスな、しかし大して面白くもない物語になぜだか魅了され、その意味を考えるということを止められないでいるということ・・・・・そのこと自体が実はこの物語の意味を解く重大な鍵だったのである。かくも多くの人がわけもなく惹き付けられることにはやっぱりしかるべき理由があるのである。

一見、面白くもない荒唐無稽な物語が長い年月の間、たくさんの人たちに語り続けられてその記憶に留まるということが、非常に良くあることであるのは童話や民話を思い浮かべればすぐに分かることであろう。童話や民話といったものがなぜにそんなにも人々から忘れられないでいられるのか、ということについては多くの説があるが、中でも近年のユング派の心理学者たちの説明はことさらに有名である。そうした物語には、我々が人生において無意識から受け取るメッセージの普遍的なパターンが含まれている、というものだ。つまり、こうした物語は、我々が生きていく上でよく経験するであろう心理学的なメッセージとして解釈をできるということなのだ。

だからといって短絡して、「ナポリタン」が現代の民話である、というようには誤解しないで欲しい。この話はそこまで普遍的ではないし、物語的であるというよりはもっと断片的なイメージを表すように思われるからだ。そう、この「ナポリタン」は、我々が無意識からメッセージを受け取るもう一つの、そして最もポピュラーな形式、すなわち「夢」なのではなかろうか? ただし、ただの素朴な夢ではない。この夢が語るメッセージは個人的なものというよりは、我々が非常によく経験しがちな、一般性のレベルの高いものなのであり、だからこそ多くの人が、これをあたかも自分が見た「夢」のように感じ、惹き付けられるのである。

もしあなたが、この物語になぜだか引っかかるものを感じ、そしてどうにかその意味を紐解きたいと感じているのであれば、この物語はそのまま、あなたが見た夢そのものである、と思ってしまっても良いだろう。実際に、あなたはただ覚えていないだけで、すでにこれに類した夢を見ているということすら考えられるかもしれないのだから。

しかしそれにしても、なぜゆえにこの「夢」はかくも忘れがたく、不気味な、まるで何かの警告でも与えているかのような不吉な印象を我々に感じさせるのであろうか???

さて、ようやくここからが本題なのだが、もちろんそれにははっきりとした理由がある。

この「恐怖のナポリタン」という物語をあなたの夢として読み解くならば、それは「猿夢」よりもさらに危機的な状況を警告しているのである。そう、「恐怖のナポリタン」とはまさに無意識からの最終警告であるのだ。そういうわけで、次回はいよいよ「恐怖のナポリタン」の「解釈」に踏み込んでいきたいと思う。

(と、こういうフリをしておいて次回がなかったことが今まで何度あっただろう・・・。反省しています、、、)
  1. 2006/08/02(水) 03:10:52|
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幽二郎

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