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怪談や都市伝説などのいわゆる「怖い話」を紹介していくブログ

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なぜ夢の中の死はリアルの死を含意するようになったか(ホラー映画史評)

前回の記事で、「さて問題です」は、実は夢で、主人公は夢の中で死を迎えただけである、との解釈をしてみた。それに対して、jisx6004さんから、この系統の夢では夢の中で死んでしまったらリアルでも死を迎えるのではないか?とのコメントを頂いた。これは非常に興味深い点なので、もう少し深く考えてみることにする。

一般に、なぜか「猿夢」のような夢を見た場合、その中で死んでしまったらリアルでも死んでしまう、と当然のように思いこまれているが、これは正しいのであろうか? 古来、自分が死んでしまう夢というのは実は非常によくあるパターンの夢だ。実際にそういう夢を見たことがある人も多いのではないだろうか。一般的な夢占いにおいては「死=再生」を意味するので、新しい何かの始まりを暗示する吉夢である、と判ずるものさえある。

では、夢の中の死が、当たり前のようにリアルでの死を含意するようになってきたのはなぜか? これに関しては、私は映画「エルム街の悪夢」(1984年・米)の影響が非常に大きいのではないか、と考えている。「エルム街の悪夢」について今さら説明の必要はないだろうが、ホラー映画の大傑作古典であり、夢の中の死=リアルの死という設定の元、夢の中に現れる殺人鬼が人を殺しまくる話だ(今、気付いたんだけど、ジョニー・デップが出演していたんだねぇ!)。




「エルム街の悪夢」は、単に残虐度が高いよくできた恐怖映画というだけではなく、ホラー映画の提示する恐怖においてもエポックメイキングな業績を成し遂げている。従来の怪物物の最大の弱点は、彼らが「自縛霊」である---つまり、彼らの生息地に行かない限り殺されることはない---というところにあった。元々、この種のホラー映画は、例えば、人の迷惑を顧みずSEXばかりしているウッカリ者はろくな死に方をしないよ、というような、ティーンエイジャーに対するある種の「教育」がテーマになっているものがほとんどであり、そのため、そうした「危険行為」を行わない限りは安全、というのは当然の設定となるわけである。

こうした流れの中、この種の映画においては、怪物に対する恐怖度の強化はその残虐度をもって行う、という方向性が伝統的に追求されてきたのであり、その完成型が、あの13日の金曜日のジェイソン、というわけだ。さて、ではジェイソン以上のモンスターを作るにはどうすれば良いか・・・。ここで、ホラー映画は一つの壁にぶち当たる。残虐度の追求は、もうあらかたやり尽くしてしまった。後は何をやってもどこかで見たような映画になってしまうことは間違いない。一体、どうすれば・・・???

そこで華々しいブレークスルーを巻き起こしたヒーローこそが「エルム街の悪夢」のフレディである。そう、逃れようのない恐怖。「クリスタルレイク」のような危険地域に足を運ばなくても襲ってくるモンスター。こういうものを作ってしまえば良いのではないか・・・そうして、舞台として「夢」---誰しも必ず訪れ、逃れることのできない場所---が選ばれた、というわけだ。物理的な場所に制約されない、どこにでも起こりえる惨劇、という設定は、当時のアメリカの犯罪状況に対する恐怖と相まって、相当なリアリティーをもって迎えられただろうことも付け加えておかねばなるまい(むしろ、そういう新しい社会状況に対する道徳説話を作りたかった、という方が先に来るテーマなのかもしれないが)。

ただ、そうは言っても、人間、あまりに理不尽な暴力にリアリティーを感じることはできない。不道徳な危険行為をしていないのに、いや、していないからこそなおさらに、怪物によって制裁を受ける何らかの必然性が必要になってくる。ここで効いてくるのがフレディ誕生の秘密だ。生前の彼は町の人たち(=主人公たちの親・先祖)に焼き殺されている。先祖の犯した罪をその子孫が抱える・・・。そう、これは「原罪」なのだ!

こうして、史上最強の殺人の動機と舞台を与えられた怪人フレディは、実際の凶器はただのかぎ爪でしかない、という旧来の殺人鬼からは相当にスケールダウンした殺しの手段にもかかわらず、ジェイソンをも凌ぐ最強の殺人鬼としてホラー映画界に君臨することになったのだ。(事実、フレディとジェイソンの対決を描いた近年のホラー映画「フレディ VS ジェイソン」において、タイトルでは「フレディ」の名の方が先に来ているではないか!w)




この種の、頭の悪いティーンがSEXしまくっては殺されていく、というパターンの映画は、ティーンのSEXが完全に社会的に定着した現代においては、ただティーンが出てきて殺されるだけという衝撃に変容せざるを得ず、その隠れた魅力であったSEX描写のインパクトが弱くなるに伴って、どんどん衰退していっている、というのが現在の状況ではあるが、それでも依然、ホラー映画においては人気ジャンルの一つではある。

近いところでは、エルム街以上の病的な社会状況を反映して、殺人鬼を友達にしてしまった「スクリーム」が最も成功し、有名なところであろうか。もっとも「スクリーム」は、ジェイソン・フレディ以上のモンスターを作ることは最初から諦めて、過去のホラー映画自体をパロディにする、という、ある意味、ホラーがすでに起こった、そして起こっている現実以上の恐怖を描くことは不可能である、という史上最悪に恐ろしい宣言をしてしまった、メタな意味で「怖い」映画なので、ストーリー上で過去の作品と比較するのは難しいかもしれない。

思いっきりネタバレだが、さらに恐ろしいことに「スクリーム」では、主人公である聖処女は、あろうことか自ら殺人鬼を誘ってロストバージンし、そのあげくに自らも殺人を犯して何ら反省することもない、という、極めてアンティクライストなヒロインに堕してしまっている。ジェイソンが見たら憤死間違いなく、一見、過去のホラー映画に対して非常な敬意を払っているオマージュ作品のように見せかけ、その内実は完全に過去のモンスターたちの努力を裏切るものになっている、という構造は、非常に興味深く、このような映画が何の抵抗もなく受け入れられたのは、まさに病めるアメリカの真骨頂、というところだろうか。もしかしたら、その反動が今日の「神聖アメリカ帝国」の出現につながっているのかもしれないが。

割に正統な流れとして、驚くべきアイデアを披露した点で注目すべき映画は「ファイナルデスティネーション」であろう。この映画においては、真剣にフレディを超える殺人鬼の創造に努力が費やされ、ついに設定上はフレディすら上回る殺人鬼---すなわち、人間の死すべき運命(=死神)---の発掘に成功した。この映画、興行的にはぱっとしなかったのか、その存在を知る人は少ないが、ティーン大量死モノ進化史上に、そのアイデアにおいて間違いなく名を残す作品であるので、こういうのが好きな人は是非チェックしておいた方が良いだろう。もっとも、アイデア一発勝負の感が強いので、ストーリー的には、そこに登場する怪物に対し、「ジェイソンでないことの必然性」が全く感じられず、残念極まりない内容なのではあるが。

なお、正統派に見えるこの「ファイナルデスティネーション」においてさえもまた、人の生死の運命は「死神」なる非キリストの神が握っている、と、堂々と宣告している点には注意が必要である。その点においても、この「ファイナルデスティネーション」の中途半端な立ち位置が分かろう、というものだ。




以上、夢の中の死がリアルの死を含意する、というのは、比較的新しいフィクションではないか?というのが私の考えだが、では、本当は夢の中の死とは何を意味するものなのか・・・。次回はそのテーマについて、「猿夢」を解題しながら考えてみたいと思う。
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  1. 2005/08/02(火) 11:57:23|
  2. 出典あり|
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幽二郎

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