月の裏

怪談や都市伝説などのいわゆる「怖い話」を紹介していくブログ

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ループする恐怖

今日はちょっと時間があったので、「耳袋」のDVDを見てみた。私は実は、「耳袋」のシリーズはあまり好きではなく、本の方はほとんど読んだことがない。どうもあれは、怪談というのとはちょっと違うような気がするからである。例えば、グロ写真を何枚も見せられたとすれば、それは確かに怖い思いはできるかもしれないけど、そこで得られる恐怖に何ら知的な楽しみはない。「耳袋」のシリーズにも、似たようなテイストを感じるのだ。確かにそれなりに怖い思いはできるのだが、「幽霊の話、聞きたいんでしょ?良いですよ、してあげましょう。幽霊が出ましたよ、おしまい。どうです?」と言われているような感じで、基本的に物語になっていないというか、むしろ写真を見せられているかのような気がしてしまう。ただ、私の「耳袋」のシリーズに対する知識は、本屋で1、2冊パラパラと立ち読みした程度のものなので、もしかしたら私が手に取ったものがたまたま、そういう短編をまとめただけなのかもしれないが・・・。

さてさて、今日見たDVDでも思ったのだけど、最近の現代的な怪談には、恐怖を発生させる装置として「ループ」を使っているものが結構、多いような気がする。「ループ」とは言うまでもなく、繰り返し同じことが起こることで、例えばこんな話だ。




ある女の子が、田舎で老人から民話の聞き取りをしている。二人が田舎道を歩きながら話をしていると、向こうの方から別の老人が歩いてきた。二人がその老人と挨拶を交わしてしばらく歩くと、また向こうの方からさっきと同じ老人が歩いてくる。しかし、女の子と一緒にいる老人は全く動ずる風もなく、さっきと同じように挨拶を交わし、また道を歩いていく。すると、三度、さっきの老人が道の向こうから歩いて来るではないか。女の子には何が何だか、全く訳が分からない・・・。




他にも、耳袋にも収録されていたが、タクシーが一晩に同じような客を何度も乗せて同じようなところをぐるぐると回る話なんかが、こういうタイプの怪談として有名だ。なお、タクシーの怪談は、明確にループ---つまり、全く同じことが繰り返され、時間の進展がないように感じられる---として描かれる場合と、シンクロニシティー---似たようなことがたまたま同時期に多発する---として描かれる場合があり、怪談というよりもシンクロニシティーのような不思議な体験をした話、として語られることも多い。

すぐには思い出せないが、民話にも確かにこういうループを描く話はあったかとは思うが、やはりこの「ループ」というのは、現代の怪談に目立つ特徴と言えると思う。では、なぜ、現代の怪談はループを好むのか。この理由は非常に簡単なように思える。

そもそも、こういう怪談ブログで書くのも変な話だが、テクノロジーが発展し、闇と夜が消えた現代のこの世の中、幽霊がいますよ、と言っても、そうホイホイと恐怖を感じてもらえるものではない。妖怪などはすでに絶滅危惧種として保護対象にまでなっている。この辺が、都市部では怪談よりも都市伝説の方がフォークロアとして幅をきかせている理由でもある、なんてことは改めて言うまでもないことであるが、現代の怪談でループが好まれる理由も根っこは同じところにある。

今のご時世で、怪談の中に幽霊を出すともなると、まずもって、その幽霊のリアリティーを出すことにエライ苦労をしないといけないわけだ。そしてさらに上、その幽霊に奇想天外なオチまでつけてやらないと恐怖は感じてもらえず、ずいぶんと割に合わないことになってしまうのだが、その点、ループは楽だ。何だって良い。とにかく、日常体験をループさせてしまえば、それだけで怪談が成立するのだ。

例えば、あなたが学生だったとしよう。1時間目が終わって、2時間目の始業のベルが鳴る。すると、驚いたことに、1時間目と同じ先生が1時間目と同じように入ってきて、1時間目と同じような挨拶から始める。あなたは、何か悪い冗談か、とも思い、周囲の友人の反応を見るが、誰も気にしているふうはない。あなたは、隣の友人を突いて、こっそり聞いてみる。「今日って、何かあったっけ?エイプリルフールとかじゃないよね?」友人はぽかーんとした顔であなたを見つめる。あなたは、自分も何でもないふうを装い、ともかくも授業を受ける。そうして、3時間目。まさかと思っていたら、そのまさか!またさっきと同じ先生が同じようにやってきて同じように挨拶をする・・・。一体、これは・・・!?

と、まあ、こんな感じ。他にも、会社の社長が毎日、全く同じ訓辞をする、とかでも良いし、昼飯食ったばかりのおばあちゃんがまた昼飯を出せと言い出す、とかでも良いだろう(笑)。何だって簡単に怪談になってしまうのだ。これは便利だ。もし百物語なんかに呼ばれでもしたら、ネタは忘れても良いが、「ループ」だけは忘れてはダメだ。これさえあれば何話だって怪談が作れる。そんなパターンで何話か話した後、「それさっき聞いたよ」って言われたら、すかさずこう言おう。「え・・・?オレ、これ話すの初めてだけど・・・」

にしても、ループはなんでこんなにも簡単に怪談になるのだろうか。私は、それこそはまさに人間が本質的に怪談が好きな生き物であることの証明になるような気がしてならない。そう、人間とはいつでも怖い体験を、すなわち「非日常」を求めているのだ。毎日毎日、同じことばかりが続く、見飽きた退屈な日々。だが、ここに魔法があった!そのまさに見慣れた日常が、単に繰り返すのではなく、ぴったり正確に繰り返したそのとき・・・それはあり得ない非日常へと劇的に転化するのだ!

日常は本来、繰り返すものである。だから、日常が繰り返すことに対して、我々は説明不要にリアリティーを感じる。そして、日常は変わらない。夜がなくなれば妖怪は棲み家をなくすし、闇がなくなれば幽霊は行き所を失う。彼ら、非日常性の住人は極めて環境変化に弱い存在なのだ。ところが、ゴキブリなみの生命力を持つ日常は、いついかなるときでも我々と共に力強く存在する。日常と繰り返し・・・その一見、ありふれた道具を正確に組み合わせることで、我々が飽いていたその繰り返す日常に鋭い亀裂が走り、我々を非日常へと誘ってくれるのだ。

あなた、今、退屈で窒息しそうになっていませんか? そんなときは、ループの魔法を思い出してください。そう、手始めに、まず、明日、今日と全く同じ服を着て、全く同じ電車の全く同じ車両に乗って、全く同じつり革に全く同じようにつかまってみましょう。そうして、明後日も明明後日もまた全く同じように・・・。いずれ、誰かが、全く正確にループするあなたに気付いて驚嘆することでしょう。彼にとって非日常の驚きが現れ、そしてそのとき・・・あなたも非日常の住人に仲間入りするわけです。

・・・・・え?

今日と同じつり革には、すでに可愛い女の子が捕まっていたって?

女の子が捕まっているんでしょ?

助けてあげましょうよ。

それは電車男という素敵な非日常の始まりですよ・・・。

(なわけねーだろっ! > オレ
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  1. 2005/08/21(日) 23:23:24|
  2. 雑記|
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なぜ夢の中の死はリアルの死を含意するようになったか(ホラー映画史評)

前回の記事で、「さて問題です」は、実は夢で、主人公は夢の中で死を迎えただけである、との解釈をしてみた。それに対して、jisx6004さんから、この系統の夢では夢の中で死んでしまったらリアルでも死を迎えるのではないか?とのコメントを頂いた。これは非常に興味深い点なので、もう少し深く考えてみることにする。

一般に、なぜか「猿夢」のような夢を見た場合、その中で死んでしまったらリアルでも死んでしまう、と当然のように思いこまれているが、これは正しいのであろうか? 古来、自分が死んでしまう夢というのは実は非常によくあるパターンの夢だ。実際にそういう夢を見たことがある人も多いのではないだろうか。一般的な夢占いにおいては「死=再生」を意味するので、新しい何かの始まりを暗示する吉夢である、と判ずるものさえある。

では、夢の中の死が、当たり前のようにリアルでの死を含意するようになってきたのはなぜか? これに関しては、私は映画「エルム街の悪夢」(1984年・米)の影響が非常に大きいのではないか、と考えている。「エルム街の悪夢」について今さら説明の必要はないだろうが、ホラー映画の大傑作古典であり、夢の中の死=リアルの死という設定の元、夢の中に現れる殺人鬼が人を殺しまくる話だ(今、気付いたんだけど、ジョニー・デップが出演していたんだねぇ!)。




「エルム街の悪夢」は、単に残虐度が高いよくできた恐怖映画というだけではなく、ホラー映画の提示する恐怖においてもエポックメイキングな業績を成し遂げている。従来の怪物物の最大の弱点は、彼らが「自縛霊」である---つまり、彼らの生息地に行かない限り殺されることはない---というところにあった。元々、この種のホラー映画は、例えば、人の迷惑を顧みずSEXばかりしているウッカリ者はろくな死に方をしないよ、というような、ティーンエイジャーに対するある種の「教育」がテーマになっているものがほとんどであり、そのため、そうした「危険行為」を行わない限りは安全、というのは当然の設定となるわけである。

こうした流れの中、この種の映画においては、怪物に対する恐怖度の強化はその残虐度をもって行う、という方向性が伝統的に追求されてきたのであり、その完成型が、あの13日の金曜日のジェイソン、というわけだ。さて、ではジェイソン以上のモンスターを作るにはどうすれば良いか・・・。ここで、ホラー映画は一つの壁にぶち当たる。残虐度の追求は、もうあらかたやり尽くしてしまった。後は何をやってもどこかで見たような映画になってしまうことは間違いない。一体、どうすれば・・・???

そこで華々しいブレークスルーを巻き起こしたヒーローこそが「エルム街の悪夢」のフレディである。そう、逃れようのない恐怖。「クリスタルレイク」のような危険地域に足を運ばなくても襲ってくるモンスター。こういうものを作ってしまえば良いのではないか・・・そうして、舞台として「夢」---誰しも必ず訪れ、逃れることのできない場所---が選ばれた、というわけだ。物理的な場所に制約されない、どこにでも起こりえる惨劇、という設定は、当時のアメリカの犯罪状況に対する恐怖と相まって、相当なリアリティーをもって迎えられただろうことも付け加えておかねばなるまい(むしろ、そういう新しい社会状況に対する道徳説話を作りたかった、という方が先に来るテーマなのかもしれないが)。

ただ、そうは言っても、人間、あまりに理不尽な暴力にリアリティーを感じることはできない。不道徳な危険行為をしていないのに、いや、していないからこそなおさらに、怪物によって制裁を受ける何らかの必然性が必要になってくる。ここで効いてくるのがフレディ誕生の秘密だ。生前の彼は町の人たち(=主人公たちの親・先祖)に焼き殺されている。先祖の犯した罪をその子孫が抱える・・・。そう、これは「原罪」なのだ!

こうして、史上最強の殺人の動機と舞台を与えられた怪人フレディは、実際の凶器はただのかぎ爪でしかない、という旧来の殺人鬼からは相当にスケールダウンした殺しの手段にもかかわらず、ジェイソンをも凌ぐ最強の殺人鬼としてホラー映画界に君臨することになったのだ。(事実、フレディとジェイソンの対決を描いた近年のホラー映画「フレディ VS ジェイソン」において、タイトルでは「フレディ」の名の方が先に来ているではないか!w)




この種の、頭の悪いティーンがSEXしまくっては殺されていく、というパターンの映画は、ティーンのSEXが完全に社会的に定着した現代においては、ただティーンが出てきて殺されるだけという衝撃に変容せざるを得ず、その隠れた魅力であったSEX描写のインパクトが弱くなるに伴って、どんどん衰退していっている、というのが現在の状況ではあるが、それでも依然、ホラー映画においては人気ジャンルの一つではある。

近いところでは、エルム街以上の病的な社会状況を反映して、殺人鬼を友達にしてしまった「スクリーム」が最も成功し、有名なところであろうか。もっとも「スクリーム」は、ジェイソン・フレディ以上のモンスターを作ることは最初から諦めて、過去のホラー映画自体をパロディにする、という、ある意味、ホラーがすでに起こった、そして起こっている現実以上の恐怖を描くことは不可能である、という史上最悪に恐ろしい宣言をしてしまった、メタな意味で「怖い」映画なので、ストーリー上で過去の作品と比較するのは難しいかもしれない。

思いっきりネタバレだが、さらに恐ろしいことに「スクリーム」では、主人公である聖処女は、あろうことか自ら殺人鬼を誘ってロストバージンし、そのあげくに自らも殺人を犯して何ら反省することもない、という、極めてアンティクライストなヒロインに堕してしまっている。ジェイソンが見たら憤死間違いなく、一見、過去のホラー映画に対して非常な敬意を払っているオマージュ作品のように見せかけ、その内実は完全に過去のモンスターたちの努力を裏切るものになっている、という構造は、非常に興味深く、このような映画が何の抵抗もなく受け入れられたのは、まさに病めるアメリカの真骨頂、というところだろうか。もしかしたら、その反動が今日の「神聖アメリカ帝国」の出現につながっているのかもしれないが。

割に正統な流れとして、驚くべきアイデアを披露した点で注目すべき映画は「ファイナルデスティネーション」であろう。この映画においては、真剣にフレディを超える殺人鬼の創造に努力が費やされ、ついに設定上はフレディすら上回る殺人鬼---すなわち、人間の死すべき運命(=死神)---の発掘に成功した。この映画、興行的にはぱっとしなかったのか、その存在を知る人は少ないが、ティーン大量死モノ進化史上に、そのアイデアにおいて間違いなく名を残す作品であるので、こういうのが好きな人は是非チェックしておいた方が良いだろう。もっとも、アイデア一発勝負の感が強いので、ストーリー的には、そこに登場する怪物に対し、「ジェイソンでないことの必然性」が全く感じられず、残念極まりない内容なのではあるが。

なお、正統派に見えるこの「ファイナルデスティネーション」においてさえもまた、人の生死の運命は「死神」なる非キリストの神が握っている、と、堂々と宣告している点には注意が必要である。その点においても、この「ファイナルデスティネーション」の中途半端な立ち位置が分かろう、というものだ。




以上、夢の中の死がリアルの死を含意する、というのは、比較的新しいフィクションではないか?というのが私の考えだが、では、本当は夢の中の死とは何を意味するものなのか・・・。次回はそのテーマについて、「猿夢」を解題しながら考えてみたいと思う。
  1. 2005/08/02(火) 11:57:23|
  2. 出典あり|
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幽二郎

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