月の裏

怪談や都市伝説などのいわゆる「怖い話」を紹介していくブログ

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顔キレイナビ

最近のデジカメは瞬時に人間の顔を検出してそこにピントを合わせてくれるそうだ。だが知人の撮った写真はピンぼけばかり。カメラは一体、どこに人の顔を見たのだろうか。
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  1. 2007/10/14(日) 00:35:49|
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必ずしも素晴らしい人間にならなくても良いと死者が語る

普通の人であれば誰だってなるべくは良い人でありたいと思うわけだ。自分の生の限り自分なりには精一杯に生きて周りの人に良い影響を与えるような人になりたい、周りの人の助けとなりたい。そんなふうに心の底では願い、そしてそのあまりに理想的な理想は当然に満たされず失望することが多いのだが。

だがしかし、もしあなたが周りの人にとって素晴らしい存在、周りの人の大きな支えとなる存在であればあるほど、皮肉なことにもしもあなたを失ったときの周囲の人が受ける傷は大きい。

人間は弱いようで強いから、たいていの人はそうした傷をいつかは乗り越え、そしてその傷を乗り越えたときその人はあなたを失う前の自身よりもさらに一回り成長した姿を見せてくれる。だけどしかし、運悪く人生の大切な時期、あなたを失うにはまだ早すぎる時期にあなたを失ってしまった人は、最後にはその傷を乗り越えることができるのかもしれないけど、その傷を乗り越えるためだけにほとんどの人生を費やしてしまうというようなことになってしまうことはないのだろうか?

生きている限りは精一杯、理想に近付こうとする生者の努力は全く否定できるものではないし、何よりもその姿は美しい。だけど、たまにはその歩みを止めても良い。いやむしろときには止めてみるべきだと思う。

死者に語りかけ、死者を弔うようでいて、実は耳を澄まして声を聞かなくてはいけないのは私たちの方なのかもしれない。還らなくても迎えなくても死者からのメッセージというものは確かに存在するのだろう。
  1. 2007/08/12(日) 02:13:06|
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【衝撃動画】「くねくね」を発見した!【YouTube】

以前、ここでも紹介したことのある超有名妖怪「くねくね」

ついにその姿をカメラが捉えた!

衝撃の全容をとくと御覧アレ
  1. 2006/11/12(日) 03:21:02|
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メデューサの瞳

かつて絶世の美を謳われたメデューサは神の怒りに触れ、その髪を蛇に変えられたわけであるが、怪物に変えられてもなおその顔貌は以前のままであったという説もある。

美しい女性に魅入られてそのまま石になっていくというイマジネーションはもしかしたら破滅願望の最高の充足の形なのかもしれない。そこにはアニマによって全ての時間から解放されるという快楽がある。

だがしかし、彼女の髪は蛇であることをお忘れなきよう。破滅に魅入られたものを最後に待つものは、毒蛇に締め上げられるような緩慢な苦痛である。

時は決して、止め得ない。たとえ魔女にも。
  1. 2006/10/03(火) 00:29:49|
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霊とは何なのか?---「うしろの百太郎」の秘密

オカルトの世界では説明の必要がないほど有名なマンガ家に、つのだじろうという人がいる。代表作と言えば「うしろの百太郎」と「恐怖新聞」が挙げられるが、実はオカルト時代以前にも梶原一騎原作で「空手バカ一代」(第一部)のような人気作品を描いていたりする。

「空手バカ一代」は今から見ても、ちょっと体格は良くなったもののどう見ても鬼形礼が空手で牛やら熊やらヤクザやらをブッ倒すという、見方によってはメタにオカルトかつ楽しめる作品なのだが、さすがに鬼形礼だけあって主人公が妙に内省的でマゾヒスティックなのはかなり受けるところだ。マンガにおいて、実は顔の描き分け以上に難しいのが主人公のパーソナリティの描き分けだが、それを潔いほどに諦め、梶原一騎原作でありながらなお自らの主人公像を貫き通してしまうというのは、それはそれでスゴイことなのかもしれない。もっともそれは因果関係が逆で、「空手バカ一代」が肉体的な修行を究め尽くした挙げ句に精神世界へと移行していくのが「うしろの百太郎」であり、その果てにボロボロになってある種の諦観にたどり着いた境地が「恐怖新聞」なのである、という方が真相なのかもしれないが(笑)。

(なお、「空手バカ一代」の第二部の方はつのだじろうの画ではないので、マンガ喫茶とかでそっちの方を手にとって「どこが鬼形礼やねん!?」って怒らないように。念のため。さらに、名前が似ているからって同じ梶原一騎原作の「カラテ地獄変」だとか「新カラテ地獄変」だとかをうっかり手にとって別の世界のオカルトに開眼してしまったりしないようにw。)

さて、「うしろの百太郎」にしても「恐怖新聞」にしても、そのあまりに荒唐無稽でMMR的な内容をもってして、これをギャグマンガとしてしか見ていない人も多いかもしれないが、実は私、最近になってこの2作品を結構、再評価していたりするのである。それは、これらの2作品がある面における「霊」というものを実に見事に描いているように思われるからである。

つのだじろう作品における霊の大きな特徴とは、人に取り憑いて作動するということではないだろうか。つまり、霊とは常に人と共にあるものとして描かれるのである。

そして、このことは両作品に登場する主人公的な霊によって特に顕著に、そして象徴的に表現されている。「うしろの百太郎」の主人公の一太郎には守護霊である善霊の百太郎が、「恐怖新聞」の主人公の鬼形礼には憑依霊である悪霊のポルターガイストが登場し、いつも---なんでこの霊たちはこんなにも暇人で主人公をストーキングし続けるのか、というほどに---彼らを生暖かく見守っているのである。まあ、百太郎の方は守護霊だからそういう設定であるのは当然としても、面白いのはポルターガイストで、彼は悪霊のはずなのに鬼形礼を助け、また鬼形礼もそれを当然というか期待しているかのような共生関係を築いていたりするのである。「百太郎」を読んだ後に「恐怖新聞」を読めば、何の背景知識がなくても、ポルターガイストとはまるでチョイ悪百太郎、つまり口は悪いが結局は鬼形礼の守護霊であるかのように感じるに違いない。

彼らは主人公からは見えるときもあれば見えないときもあるが、彼らの方からは常に主人公を見守り続けている。普段は大体、夜になると現れるが、特に主人公が危機的な状況に陥ったり何かの転機を迎える際には常に重要なメッセージを持って姿を現し、主人公に何かしらの警告や助言を与える。主人公が意識するしないにかかわらず常に主人公と一緒にいて、主人公から離れることはないし、また離れることはできない。それが彼ら「うしろの霊」たちの際だった特徴なのだ。

一体、彼ら「うしろの霊」たちの正体とは何なのだろうか?我々は彼らに対して既視感を覚えないだろうか?そう、すでに勘の良い読者の方は察しがついていることと思うが、彼ら「うしろの霊」たちの見せる振る舞いとは、すでにこのブログでも何度も取り上げてきたテーマでもある「無意識」のそれとそっくりではないだろうか?「うしろの霊」たちとは、まさに擬人化された無意識そのものなのである。

そのように「霊」というものを無意識の人格的な表出として理解すると、一気に「霊」、特に「憑依する霊」というものの性質が明らかになるように思える。この見方を取るのであれば、まず、百太郎、つまり守護霊とは、実は我々自身の内部にあるものなのであり、意識に対して導き手として働く無意識の機能面を強調したものということになる。実際、百太郎がそうであったように、守護霊のイメージというのは我々に縁のあるもの、特にご先祖様として経験されることが多いが、それはまさに老成した我々自身の姿---当然にご先祖様に似ているのである---であるからに他ならない。我々の人生的な成長を先取りした完成型のイメージこそが守護霊なのであり、それは我々が人格的な成長の果てに目指すものとして無意識的な思い描いているものなのだ。

彼らは、私たちが今持っている情報について、それをもっと理想的な成長を遂げた私であればどのように判断するであろうか、という答えを持っている。それは往々にして現在の私たちの意識にとっては受け入れがたい判断ではあるが、結果的に正しい導きを行う。それは我々が不正を行いそうになったり、危機的な状況に陥った際に、我々が本当は見えているのに目を背けている状況打開の鍵を気付かせてくれる心の声であるから、いつも我々を助けてくれるとは限らない。普段の我々の行いの悪いものに霊が助けの手を差し伸べることはないが、それは我々が無意識的に目指す理想が日常の行いに結実し、また逆に日常の行いの積み重ねこそが人格的な成長と目標に結実することを考えれば当然のことと言えよう。

またさらに、百太郎が子供として現れているように、守護霊は老人や十分に成熟した大人のイメージではなく子供のイメージを持つことも多い。それは守護霊の持つ善性が無垢の童に端的に表現された結果でもある。人間とは、社会的な経験を積み重ねて大人になっていくに従って避けがたく汚れていくものであり、またそうした老獪な世知こそが日常、我々がこの世を生き延びていくことを助けるものではあるが、そうした濁った目は人生の重大局面においてはしばしば全く役に立たないどころか有害なものにすらなり得る。そんなときに我々を正しい方向に導いてくれるものは我々の中に実はまだわずかに残っている童心なのである。判断と言うよりは決断が迫られるような重大事においては、無垢な心こそが本当に正しい道を教えてくれるのだ。そして、そうした童心をなくさないためには、どんなにつまらなく見える日常に陥ってもなお、遊び心を忘れてはいけないのである。

このように我々の日頃の行いに応じて、その無意識的な蓄積は人生の難局にあたって我々を助け、導いてくれるのであるが、生きるということにおいてはもちろん、そのような善なるものだけを蓄積していけるわけではない。無意識的な蓄積の光の面が百太郎だとすれば、その暗黒面、それこそがまさにポルターガイストの正体なのだ。

・・・・・
書き疲れた。長くなったので、一旦、中断して(気が向いたらw)「恐怖新聞」編に続くことにしよう。

なお、一応、断っておくが、私は全ての霊現象を人間の無意識の働きに帰するつもりではない。これはあくまでも「うしろの百太郎」的なものに対する考察である。

さらにもう一つ断っておくと、心霊というオカルティックなものを無意識という(一見)科学的なもので説明しようとしたいわけでもない。いやそれどころかむしろ逆に、無意識という科学的なものをオカルティックなものに並べたい、ということはあるかもしれないが(笑)。
  1. 2006/08/21(月) 01:49:40|
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幽二郎

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